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【高校生あるいはその保護者向け】大学の選び方

別にこんな啓蒙的なものが好きってわけじゃなく、講釈垂れるのはむしろ嫌いなんですけどね。というかSNSという一方的な発信の場でまさにある程度社会的選択が終わった者としての無形で無根拠な権力性を帯びてしまうのは私が忌避したいところではあるが致し方なし。

今回、就職率や平均年収などのデータを見せて「就職が良いからここの大学の何学部がいいね」とかは書きません。「弁護士とか医者とかは取得するのが困難な資格でしかも(少なくとも現状の実態としては)年収が高いから法学部や医学部医学科がいいね」とかも書きません。おもんないので。

あと今回やりたいことがない人向けです。私は高校時代、ちょっと物理が好きなぐらいで、「やりたいことがあるってどんな状況? なんでみんな「やりたいこと」なるものを持ってるの?」って思ってました。今でもそれは不思議です。大人になった今は「比較的やりたいこと」ぐらいは持ってますけどね。正直、いろいろ自分で調べてやりたいことを見つけろ系のこと言う人には「押しつけんなよ。そんな無理して探すもんじゃないよ」と思いますし、強迫観念に迫られて探したものってそもそもザッハリッヒに肯定されるものしかあり得ず、勉強することそのものの面白さが関係してこないものになって将来への期待すら奪うものになっちゃいますよ(計算可能性で比較衡量されることになるので)、と諭したくなります。


①地域で選ぶ

現地へ行って「いい雰囲気」と思ったらそこでもいいかもしれませんね。それだけを根拠におすすめはしませんが。でも緑があるとこってけっこういいですよ。季節によって違う香りがするとことか。卒業後ふらっとその土地に立ち寄ったとき、かけがえのない大学時代が思い出せるかも。香りは大事。故に自然は大事。あと一人暮らししたいならしてください。経済的に問題ないなら。楽しいです。ただでさえ自由な大学生活がさらに自由になります。私はご飯の時間気にせず読書や勉強に没頭できたのがよかったです。

②偏差値で選ぶ

なんならこれが一番いいんじゃないかな。なんか自分が誇らしく思えるようになるだろうし。よくわからんけど根拠ない自信でもあったら積極的に行動できて大学生活充実しますよ。少なくとも即物的には。あと偏差値高い大学行くと性格いい人多い。私はいじめとか暴力とか普通にあったり大っぴらに他人の悪口言ったりやりたい放題の生徒がいて授業がまったく進まなかったりする高校だったので殊更にそういう観念が強いかもしれませんが。そういう邪魔くさい人が多いと自分の中にいろいろ溜め込むし、溜め込んだものをどこかに吐き出せたらいいのだけれど、でも溜め込むべきものとして認識されたものは大抵は外の世界に発信することが憚られて同じ悩みで連帯することができなかったりするんですよね。特に今ってそういう横槍入りやすいじゃないですか? 孤独になりやすいじゃないですか? 溜め込んだものを言葉にするってのは大事でそれって社会の問題を指摘することにつながるし誰かを救いもしますが、でも周りのせいでそれが無価値だと認識されてしまった暁には、発信することすら妨げられてしまいますからね。まあそういう社会的に見た功利主義的観点は比較的どうでもよくて、自分が溜め込んでしまって苦しくならないかというのが大事なんですよね。その苦しみを開示する決定権を自分が持っていて他人から要求されることもないこととかも大事ですね。要求されるとむしろ塞ぎたくなりますよね。

あと偏差値高い大学ってやっぱ勉強すること好きな人多い印象ですね。どこの大学行ったって生活のほとんどが現代消費文化(ビジネス自己啓発系も含む)に回収される人はたくさんいるから、比較的、だけれど。優劣なしに楽しめることあるのが一番楽しいし、純粋に勉強できる(ここで書いておきますが、勉強したいテーマなんて大学で探せばいいです。理系学部でも哲学に興味があったっていいです)。テストはあれどパフォーマンスを測る本質的な基準なんてないからコスパとかという概念の介入の余地もない。価値が外部にあるんじゃなくて当に論理的である(内在的である、事実を反映している)ことにより自分の正当性が担保されるっていう経験がなかったりそもそもそれがどういうことかわからなかったりすると、思想の自由とか言論の自由とかの意義を把握できることってあるんでしょうか? 別に意義を把握しなくていいと言う人はたくさんいるだろうけれど、勝手に否定されたり苦悩を黙殺されたりするのはつらいものがあるんじゃないだろうか、と思ってしまいます。余談ですが昔「それはあなたの主観だよね?」という指摘はむしろそれがどれほど論理的に必然的なのかとある価値について内在的であるのか、そうでなければ偶然的であれどれほど有意味なものであるのかを尋ねるべきだというようなことをTwitterで書いた気がするけれど、そこの分別を時間のある大学生のうちにつけようという話です。

勉強好きな人に触発されて自分もたくさん勉強するようになると、やっぱ知識、語彙力がついて自分で考えて表現できることが増えますね。それは社会の(したがってその中で過ごしてきた自分の中で醸成されてきた)固定観念とかいろいろ打破してくれる。固定観念が打破されるということは「これは口に出しても無駄だな」とか思って1人抱えていたものがなくなるということなので割りと気が楽になりますよ。私を苦しめていたものはやっぱり非難に値するものだったんだって。我慢するだけが美徳じゃないんだって。やっぱ語彙力とか知識とかついて論理に基づいて考えられるようになると、誰が支持してくれそうかなんて眼中になくなって正当化の根拠が自分の理性になるので発信しやすいですね。うっかり考慮すべき視点が欠落していた、というのはたくさんありますけど。


まあこんなとこでしょうか。あとから付け足そうと思うことはたくさん出てくることは間違いないですけど、今日はこれにて。ビール6本飲んだあとで頭フワッフワなのもありますし明日(日付的には今日)も勉強したいのでそろそろ寝ます。おやすみ。

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