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【読書感想】愛についての再考 『アルジャーノンに花束を』を読んで

わかりやすさはどうだかわからないが、それでも多くの人が共感するなにかを書きたいと思っている。私はこの感覚を、できるだけわかりやすく伝えたい、つまり、Amazonや読書メーターなどで屡々見られる感想、この本を読んで「チャーリイは私だ」と直観した人で、しかしそれを説得的に言葉にすることができない人の感覚に妥当性をもたらす解釈を提示したいのである。また、本稿は都会と田舎のいわゆる”教育格差”問題の一部と同型の問題を有しているであろうし、経済格差、希望格差の問題でもある。社会人になってから再度大学院で学ぶ人の割合が少ない日本においてはこれは青年期にとりわけ重要かつフェイタルでさえあり得る問題であるが、しかし青年期にこれを掘り下げて考える時間を与えず多忙で圧し潰している現状に異論を投げかけたいのだ。

前置きが長くなってしまったが、ここから本題に入りたい。なお、本稿ではIQについて誤解を与え得る記述を含むが、ここでは本文の引用という形で一部抜粋せざるを得ないので、そこは読者諸賢の良識を信用し、注釈は加えないこととする。また、文の美しさを優先し、幾分私の信念とは相反することさえ書いている箇所があるが、そこは大いに異論を歓迎したい。

私がこの本を読んでいて最も長い時間、ぺーじをめくる手を休めたのは以下の描写があったところだ。長くなるが、引用する。主人公で、知能障害から手術を受けて天才に変貌し、再び元の読み書きもままならない頭脳に戻っていく過程を辿っている只中のチャーリイ・ゴードンと、その世話役であり元チャーリイの教師であり、さらには互いに恋心を抱いた仲であるアリス・キニアンの会話である。

「きみになんかわかるもんか、きみの中で何かが起こって、それを見ることもできなくて、どうにかすることもできなくて、そしてなにもかも指のあいだからこぼれていってしまうのがわかるってことが、それがどんなことなのかわかるもんか」
「そうだわ。あなたに起こっていることを理解できるなんていってない。あなたの知能があたしの及びもつかないものになったときだって。それからいまだって、そんなことはいいません。でもひとつだけいいたいことがあるの。手術を受ける前のあなたはこんなふうじゃなかった。あなたは自分の汚らしさや自己憐憫におぼれたりはしなかった、昼も夜もテレビの前にすわって自分を堕落させるようなことはしなかったし、人をどなったり、かみついたりしなかった。あなたには、あたしたちに尊敬する心をおこさせるようななにかがあった――そうよ、たとえああであってもよ。他の知的障害者に見られなかった何かがあった」
「ぼくは実験を後悔していない」
「あたしもよ、でもあなたは以前もっていたものを失ってしまった。あなたは笑顔をもっていた……」
「うつろな、愚鈍な笑顔をね」
「いいえ、あったかい、心からの笑顔よ、あなたはみんなに好かれたいと思っていたから」
「そしてみんなぼくをかもにして、ぼくを笑いものにした」
「ええ、でもね、なぜみんなが笑うのかあなたにはわからなかったけれど、みんながあなたが笑っていられるうちはあなたを好いてくれるんだってわかっていた。そしてあなたはみんなに好かれたかった。あなたは子供のように振るまって、みんなといっしょになって自分を笑っていた」
「悪いけど、いまは自分を笑う気にはなれないんだ」
彼女は泣くのを必死にこらえていた。ぼくは彼女を泣かしてやりたかったのだとおもう。「だからこそ、ぼくにとっては学ぶことが重要だったんだ。そうすればひとがぼくを好いてくれるとおもった。友だちができるとおもった。こいつはお笑いだねえ?」
「高いIQをもつことよりもっと大事なことがあるのよ」
その言葉はぼくをかっとさせた。

『アルジャーノンに花束を』p. 431 - 433

チャーリイの気持ちを思うと、私は自棄になって粗暴な言動をするチャーリイに痺れを切らし、遂に遠廻しにでも窘めんと欲したこのアリスの言動に、同情はしつつも反感を抱かずにはいられなかった。すなわち、アリスのこの姿勢はチャーリイの、というより多くの人が持つ他者からの承認への希求を腐し、暗闇からの脱出の原動力にもなったそれを否定するものであり得たからだ。この点に関して、少しばかり仔細に書きたい。前提として、チャーリイの知能を高める実験、手術が行われたことは両者とも肯定的態度を崩さないものとする。

まず、自己憐憫に溺れることに対してアリスが否定的である点について検討する。どうして自己憐憫に溺れることに道徳的悪を付与するのか? 己を省みることができないうちは、道徳的に善なる行為を行うことはあるかもしれない、すなわち例えば、他者が喜ぶのを見てより一層積極的な奉仕の精神を抱くかもしれない(というか、実際チャーリイはそうだったのだろう。アリス曰く、昔のチャーリイは人から好かれたいと思っていたのだから)が、道徳的悪に対しては無知のままではないか? 己を省みるだけの社会性を獲得することすら叶わぬ知性であれば、他者を慮る心も未熟なままであろう。悪を知らぬ"笑顔"はその邪気の無いことを根拠に肯定はしてもよいし未熟さ故に肯定せざるを得ないが、あくまでそれは譲歩を前提とした許容なのである。その許容は対外的に不安定なものであって、未熟であることを許容されるべき免罪符(例えば年齢と連動した、コミュニティに相対的な幼さ)を有していなければその特権は失われてしまうことを知っているからこそ、そして過去の己のことであれば尚更、愚かしく思われても致し方あるまい。道徳的悪に対しては怒りを表明しなければならない。そうでなくして、どうして一方通行でない意志疎通が出来ようか? 
チャーリイとアリスは互いに対して恋心を抱いていることはわかっていた。とすると、チャーリイがアリスのことを知りたいという願望、苦楽を共にしたいという想いを持っていたと予想するのは容易い。ならば、その未熟に隔靴掻痒の念を覚え、自己憐憫を覚するだけの社会性の獲得を望んでもよいではないか! どうしてそれがむしろ希求さるべき美徳を有しているという認識を共有できないのか、これが恋に於いて一大事であることをどうして介してくれないのか? 私は愛玩動物になりたいわけでも、義務による愛が欲しいわけでもないのだ!

さて、今度は高いIQを失うことに対するアリスの評価について書きたい。愛を求めての学習にアリスは正当性を認めるのではないだろうか。他者から好かれる手段としてチャーリイはそうしているわけで、先の引用文の口振りからして、他人への贈与行為を目的として扱うといったことに格別の称賛を送ろうという気概は感じられないからだ。しかし学習もある一定値を超えれば、彼が駆使する論理の高度さによって理解の水準の相違が眼前に顕現することとなる一方で、論理の理解できなさというものはそもそも説明がつく性質のものではないが故、片側から見れば正当な理由を持たぬ劣等性を突きつけれることになり、嫉みを買うことになるのである。衒学趣味というレッテルを添えられて。しかし、そんなことはここではさして問題にはならない。論理を介するかそうでないかが問題であり、これこそチャーリイがIQの低下を憂うことの中心問題であるように思う。論理を介する能力は、即ち自由に直結し、当然ながら人生に対する満足感、幸福を形作るものだ。そうでなければ物事の判断基準が他者に委ねられるか、短期的かつ因果関係がかなりの確度で保証された計算可能な範囲での利己主義が原動力となってしまう。つまり、そこには達成感も他者からの尊敬を伴った承認もなく、ただ交換可能なコモディティが存在するだけなのである。惰性とも称されるべき、交換可能な同一性に基づく承認からなる安価な仲間意識で孤独を紛らわす日常への安住から抜け出して自立した主体たる為には、やはり論理的正当性、必然性で以て思想を展開することが肝要である。肝要どころか、不可欠でさえあると言える。そしてそれを育むには、多くの書物を読まなければならないのだ。教養がもたらす精神的自由は、即物的幸福よりも希求さるべきものである。悩みを話せる友人がいる、食べ物に困らないといったとりわけ言及すべきでもなく社会的承認に関わってこない要素は、解釈学的には幸福であり得るが考古学的には幸福に含まれにくい(つまり、過去を省みる視点に於いてはそれを幸福と名付けてもよいが、過去のまさにその時点に於いては幸福の概念が介在してこない状態、それは"不幸"ではなく"無幸"と形容されるべき状態であるということだ)。即物的要素を幸福の十分条件にしようとする押し付けがましい幸福論なんぞは、語り手の懐古主義に好都合なだけである。幸福はやはり、己が自由に選択、行為した結果として得られる感覚であらねばならない。そのための必要条件として、知性が要るのである。それは合理的な選択をしていく必要があるからだ。そうでなければ己の選択、行為を正当化することができない。己の人生の選択を正当化できなければ、いったいどうして他ならぬ自分の人生を謳歌できるだろう? 思うに人生において最上の悦びは、明るい将来の可能性の多様さが与えられていて、それを現実にする手段がある、現実にする可能性を信じることができ、同時にまた、不可能なことについても知識を得ることである。だからこそ、将来が決まっておらず自由な時間が多分にある大学生活は貴重なのだ。大学で様々な分野の書物を読み、拝金主義者らが垂れ流す立身出世論から見れば"ムダ"なことを経験し、何が必然で何が偶然か、何が称賛されるべき価値で何がどういった理屈で非難されるに価するか、そもそも"善さ"とは何か、ある特定の行為の"善さ"が称賛されるべき理由の根底的な理由は、「そうした方が平和な社会が維持できるから」以外に何があるのか、こういったことを考える経験しないのは、自己肯定の手段を獲得する機会をふいにしていることになるし、いくらかの自由を手放すことになる。自由を手放していった先に幸福はあるのだろうか? 少なくとも現代日本のようなある程度のものが提供される社会においては、それを肯定しにくい。というのも、他者からの承認を得るにはほとんどの他人が持っている何かでは役に立たず、それ以外のもので、すなわち、自由な選択を重ねる中でこそ個性が発揮されるのであり、その余地で承認を得る必要があるからだ(チャーリイは実験の標本扱いされていることに憤りを覚え、読み書きが儘ならなかった頃の自分も一人格として尊重されることを欲していた)。個性を考慮の外にした愛や承認をもらっても、懐疑主義に陥ることになるだろう。人生における困難や挫折、一個人にはどうすることもできない不正、我々に沈黙を強いる言動に対する怒り、それらを幾何か以上に共有している者からの承認でない限りは、それが認められているということが如何に大切でかつ困難であるかがわからず、その困難さを作り出している原因は何かもわからない暗闇にいるのとさほど変わらない。この煩悶を他の人も抱いていることの確認なしには孤独感は拭い難く、他人と共にいることで得られる安心感も著しく逓減させられてしまう。然るに、自由な選択をする能力、ひいては論理立てて考える知性が必要になってくるのだ。ここに於いて、私はアリスに反意を示すことになる。
本文から考えるに、この反意にアリスはこう返答するかもしれない。「高いIQを持つよりもっと大事なこととは、愛情を他人に授けたり他人から愛情をもらったりする能力である」と。しかし後者は義務による愛、愛の懐疑主義に陥る可能性がある。(とはいえ、義務による愛が悪いという心算はないどころか、むしろ愛はそういう側面が強いとも思っている。)では私は前者にも反論するだろうか? つまり、他人に愛情を与える能力は、知性を磨くにつれて減ずるのだろうか? いや、ここではそもそもそういうことを言っているのではなく、むしろ、「高いIQを持つことよりも大切なこと」が知性を失っていっても残るのだから、高い知性を失ってもいいではないか、ということを言おうとしているのだろうか? おそらく、それしかないだろう。それ以外のことを意図してのことならおそらくそれは不毛にならざるを得ない。しかしそうであっても、なんとも押し付けがましい人生観を開陳しているに過ぎない。自由を失う恐怖に寄り添っている描写は、引用部にはもちろん本文中にもない。

さて、散々自由と書いてきた訳だが、知性以外にも、すなわち己の選択、行為に正当性を持たせる以外にも、現実的には自由を行使する条件があるだろう(尤も知性は自由に対して必然的な関わりかたである一方で、これから述べることは偶然的な条件であるため、重要性自体は変わってくるが)。それをここで検討して、まとめに向かいたい。知性以外に自由を行使する上で重要なのは、経済的条件や社会的条件だ。経済的条件は、リスクある選択肢を現実的にとり得るかの問題、例えば、大学受験で浪人ができる環境にあるかどうかだ。一方で社会的条件のほうは複雑だ。ここで書こうとしているのは、言ってしまえば価値観の形成の問題なのだが、その実態があまりにも多様だと思われるからだ。しかしここでは私が重要だと思うポイントをひとつだけ、書いておきたい。それはすなわち、田舎と都会との違いがその顕著な一例であるが、選択肢の多様性と価値づけの問題である。採るべき選択肢は何か? どんな選択肢をとっても良いか? これらの中核を担うのが、本項目だ。より偏差値の高い大学に行くのが善きことと見なされるならばそれなりの勉強はするだろうし、勉強時間の最低限の基準も高くなる。将来を考えるとして、検討に付される職業の数も多くなる。知らないものは検索エンジンの窓に打てない。触れる回数が多いものには興味を持ちやすい。そういったことだ。都会では将来に関することについて積極的に触れようとする機会を設けずとも触れることになりがちだが、田舎ではそうではない。また、こういう環境があれば惰性でもそこそこの生活レベルを維持できるほどに勉強をして学歴を手に入れたり、給与水準の高い企業への就職を目指して動くこともできるわけだ。周りもそうしているのだから。自発的に動くまでのハードルの低さこそ、都会者が持つ大きな特権の一つであると言える。そして「自分の意志なくしてはこの結果にならなかったのだから」と、この差異を無視する。問題はそうではない。有無の問題ではなくて、グラデーションの問題なのだ。矮小化するという方向性自体が筋違いだ。あり得べき選択肢、もしくは採ってもよい選択肢、採って非難されない選択肢が予め用意されているということ自体、自由の行使に大きく関与する。すなわち承認の問題である。多くの可能性が社会的に承認され提示された上で、「あの時にそれを知りたかった」という後悔が比較的少ない人生が期待されるのだ。

とりわけ注目したい一部に限定したが、以上がこの本を読んだ感想である。最後に強調しておきたいが、未来を見据えた意思決定をするとして、自由が保証されることと比べれば幸福などはさして重要ではない、というのが私の意見である。というのは、しばしば幸福の訪れは予見不可能であり、予見できたとしても即物的幸福のみだからであり、しかも即物的幸福は、たとえば国内の経済状況が悪化し一律に国民の生活水準が下がっている中では際限なく縮小され得るからだ。この自由について考える機会というものは、学校教育の中では少ない。代わりに、職業を調べて将来何になりたいか決めようという、物質的、一元的なものであり、どんなことに価値を置くか、何が大切にされるべきか、何が不正と見なされるべきかは教えられない。それどころか、善も悪も等並に相対化されてしまうという向きさえある。この道徳的頽廃、相対化を利用して尊重の意を匂わせながら、悪を断罪しようとしない相対化帝国主義にNoと言わなければならないのだが、判断の保留をさせてしまうものが何かというと、最も大きく寄与しているのは現代人のやることの多さが故の疲労、不正の蔓延に由来した悪への辟易、あるいはオジさん達が指摘するところの現代の若者の「つながりの薄さ、孤立状態への陥り易さ、その原因になり得る他人を傷つけ得る言動への過剰な恐れ」なのかもしれない。しかし、後者の指摘に関しては、"ひよっている"以上に功利的な計算によりそういった選択をしているのだろうと思われ、かなり具体的なシチュエーションでの分析が必要であろうが、それは人の数・場面の数ほど客観的かつ合理的選択はあり得るであろうから、結局は知り得ない相手の心象を慮ることが大事で、結果を元にした”反省”などではなく考古学的な考察をすることによってそれは可能になるであろうし、毀損可能性が高いが故に尊重されるべき自由の輪郭が浮かび上がってくるであろう。

計算可能な幸福に飛びつくこともこの暗い時代には気休めとして必要ではあるかもしれないが、私達の息苦しさの原因はどこにありどのように合理性としての客観性を獲得させるか、その固有の困難をともに共有し追及したいと思えてしまうのなら、それは愛と言ってもよかろうと思う。

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