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夏@下鴨神社②

(↑こちらのnoteの続きなのでこちらから読んでいただけるとうれしいです。)



「うん、それでいいんだと思う」
ひとしきり、私が塾講師になりたいという想いと、教育業界以外の業界を見るのにそれほど時間を費やす気がないこと、できるだけ勉強や読書に時間を使いたいことを語ったあとに、カレはそう肯定してくれた。

そこまで話したところで、ちょうど順番が来た。
何回か京都に来たことがあるが、この御手洗川に足をつける神事に参加するのは初めてだ。
履物を靴袋に入れて、お金を払ってロウソクが先端に刺さった長い木の棒をもらう。
300円頂戴いたします。お願いします。ありがとうございますぅ。
前の人が「え、冷たっ!」と言っているのを見て、のぐらい冷たいのかなぁなんてひそかにテンションを上げながら、火がついてないロウソクの棒を持ったまま川に入る。
「冷たっ!」
「冷たいね」
想像よりもかなり冷たかった。思わず肩をすくめる。
この非日常感、いつぶりだろう。
「僕も京都に3年いるけど初めてなんだよね。どこでどんなイベントやってるとかいうことにあんまり興味ないから、周りの友達から聞かない限りは知らなくて」
「大人になると、祭りとかになかなか興味わきづらいよね」
「そう、心の底ではたまにははしゃぎたいと思っているんだけど、照れがくるからね、結局そんなに楽しめないから、行かなくていいやってなっちゃう」
「はしゃぎたいなんて以外やな(笑)。私もそうだけど」
そんなことを話しながら膝下10 cmぐらいの川の中を歩き、大きなロウソクの前に二人並ぶ。
この斎火という神聖な火が灯ったロウソクから自分が持っているロウソクに火をもらって、お供えするのだ。
大きなロウソクに自分のロウソクの棒を近づける。
集中しなければいけないのだけれど、私はこういう非日常的なことをしている中で、特に緊張がある瞬間に、頭がぼうっとすることがある。
そして今回も、ぼうっとして2秒ぐらいはロウソクをふらふらさせていたようで、カレにロウソクを持っていたほうの手をつかまれ、ようやく我に返った。
我に返った刹那、カレに手を握られていることに気づいて、幸福感というよりは安心感と言ったほうが適切だろうか、なんとも言えない感情がやってきて、この瞬間がずっと続けばいいのにな、なんて、言葉にしてみれば使い古されているけれども、現実には唯一無二の、これ異常ないぐらい凝縮された喜びを味わった。
私は、ありがとう、と口の形だけで伝えると、カレはにっこり笑って手を離した。
そのまま、二人ともロウソクをお供えをして、名残惜しいね、なんて言いながら川からあがった。


午後8時15分。
お祭りの2週間だけ、この下鴨神社の参道には出店がいくつか並ぶのだが、私たちは酒造の出店にだけ寄って帰ることにした。
帰るといっても私のほうはお邪魔させていただく身だが。
酒造の出店では、陽気なおじさんが接客をしていて、お店の前を通る潜在顧客に声をかけて、試飲を勧めていた。
私たちも頂戴することにした。
「いらっしゃいませ!」
「ご試飲どうですか?」
勢いがすごい。
おじさんの体格もアメフトやってたんかってぐらいすごい。
「ありがたく頂戴します」とカレ。
「どういうのがお好みですか?」
「辛口が好きです」
「隣のお姉ちゃんは?」
「私も辛口が好きです」
「辛口ならこれやな」
そう言って陽気なおじさんは試飲カップにお酒を注ぐ。
テントの屋根にはちゃんと未成年にはお酒を販売しないという旨の文言が書いてある紙が貼りつけてある。
「はいどうぞ」
「ありがとうございます」
カップを受け取り、辛口の日本酒をいただく。
「どうですか? うちの酒造のお酒は……」
よくわからない解説を一生懸命される。
たぶん、ちょっとでもお酒に通じていたらわかるんだろうけれど、何割削っているとかでなにがどういいのかよくわからない。三割か、じゃあ七割はゴミになるんだな、なんてめちゃくちゃどうでもいいことばかり頭に浮かんで、笑顔で一生懸命話すおじさんの話はまったくといっていいほど内容が入ってこない。
「お兄ちゃんお姉ちゃん、こっちのお酒も味見しますか?」
「じゃあ、いただきます」
こんな調子で、4種類ぐらい味見させてもらった。
ふだんは高いお酒はまったく飲まないので、どれも「おいしい」しか言葉が出てこなかったのだけれど、とりあえずいちばん初めに試飲させてもらった辛口の日本酒の4合瓶1つと、あとで鴨川デルタで二人で座って飲む用のワンカップサイズのものを2つ、買うことにした。
割り勘のつもりで財布を出したけれど、カレが、せっかく遠いとこから来てくれてるんだし全額払うよ、と言ってくれたので、お言葉に甘えることにして、会計をお願いした。


帰り路。
名残惜しさと少しの気だるさを感じる。
9時に閉門ということもあり、周りは帰りの人ばかりだ。
平野啓一郎さんの小説の話をしながら、道脇に明かりが灯された参道を歩く。
「他人への配慮ってさ、塩梅が難しいよね」と、ちょっと話題を変えた雰囲気を漂わせるカレ。
平野さんの“分人dividual”概念のことだろうか、
「仲がいい人以外だと特にね」と無難な答えを返す。
「どうしても、共有できてないことってあるじゃん? その、特に立場が全く違う人だと。社会に出たらなおさらさ、全く知らない人とコミュニケーションとらないといけないことが増えて、ますます配慮って難しくなるよね。特に、最近は個人、あるいは企業に求められる倫理観ってかなり水準が高められたけど、それはタテマエとしてであって、人のホンネは、その高い水準に追いついてないというか。理想と現実、言われることと言われないことのギャップがかなり広がっている気がしていて、それはけっこう、みんなにとって苦しいことなんじゃないかな、と。いや、みんなじゃなくて相対的に弱い立場にある人はますます苦しくなって、ヘゲモニーを持っているほうはひょっとするとより有利になったのかな」
「うーん、私はそこまで一般的な言葉遣いをする勇気はない、かな」
「ごめん、たしかに一般化しすぎた(笑)。実際、そんな普遍化可能かどうか検討してなくて、ぱっと思ったことをそのまま言っちゃった」
「いくつかの事例については、言ってることはわかるけど……立場に甘んじているほうを、社会の要請に応じてタテマエだけ変えて行動は変えないほうを変えるのは、なかなか容易じゃないね。自分の中でなにか合理化できる理由がわずかでもあれば、それに特権をもたせて変わらない理由とするだろうし」
「そうなんだよね。たいていは、結局変わらない理由を探しがちになるだろうって」
「……なかなか、他人や組織の努力が必要な部分は解決できそうにないね。そもそもその問題が一方にとって問題であって、他方にとってはどっちでもいいって感じなんだろうし」
「うん。かといって、じゃあ上下関係のない間柄ならうまい配慮の塩梅を見つけられるかというと、そうでもないんだけどね」
「濃い関係にある人以外、その人の気持ちを自分ごととして考えることって難しいよね。仲いい人なら、その人が無理してでもがんばりたいときやほんとにつらいときがある程度わかるから、あえて放置して見守るだけにするとかもできるけど……ほら、その人の未来の自分への期待を、一緒に信じていたいからさ」
「自分と他人との間の、未来への可能性のとらえ方のギャップを小さくするってのは、けっこう大事だよね。それを怠ると、たぶんだけど、自分や他人の過大評価・過小評価っていう結果につながりやすくなる気がするな」
「そう…なのかもね」
「そのギャップを小さくするってことは、たぶん、一方の努力によるものじゃなくて」
「うん」
「双方の共同作業だよね。たぶん事細かに状況や考えていることを説明するだけじゃ上手くいかなくて、時間が必要、一緒に時間を過ごした上での信頼関係が必要だなって……これはちょっと自分でも短絡的だと思っているけど」
「うん、妥当性はわからないけど、実感としてはそうだね」
「……」
「……」
「ぜんぜん……話は変わるけどさ、僕は、今日みたいなね、二人の記憶を積み上げていけるってことに…」
私は、恥ずかしがり屋のカレがこんなことを言うのにちょっと驚いた。
そして、たぶんそのまましゃべらせると、もっと普段は言わないようなクサいセリフを言うかもしれないな、と思った。
それを期待して待ってみるのも良かったのだけれど、私は聞くのも恥ずかしかったから、こぶしをつくって、カレの横腹を小突いてみた。
その先に言いたいことはわかってるよ、無理して言わなくてもいいよ、という意味もこめて。


夜9時の鴨川デルタは、学生であふれていた。
6人前後でストロングゼロを飲んで大声で武勇伝を語り合っている人たち、静かに座って話し合っているカップル、ひとりでぼーっと虚空を見つめて鬼ころしを飲みながら考え事をしていそうな風変わりな男。
各々が自分の、自分たちだけの時間を楽しんでいるようだった。
きっかけはみんな、趣味が合うとか、外見が好きとか、そういう条件付きだったのだろうけど、一緒に過ごした記憶が、それを無条件の愛に昇華させてくれるんだろうな。
そんなことを思いながら、私はカレにちょっとだけ身体を近づけた。

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