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Photo by
masakazu
何にもなれなかった大人の自分
学校は水槽。
小学校は家庭内用の小さな水槽。
中学校はちょっと小洒落たレストランにある長方形の水槽。
高校は水族館の一角にある水槽。
同じ水のなかで同じ餌を与えられて同じ教育を受けて同じ動きをしなくちゃいけない。イワシの群れ。そんな感じ。
水槽の外がどうなっているのかは、内側からはほんの一部しか見えない。飼育員の大人も教えてくれない。
いずれ外に出されるのに、私たち魚の群れは水槽のなかでしか世界を構築できない。水槽のなかが私たちの全てだった。
護られているのと隔絶されている状態は紙一重だ。制服を着ている限り私たちは「学生」で大人から護られるべき対象の生き物になる。と同時に大人に虐げられる対象にもなる。
そのさじ加減は人それぞれ。
当時はそれを不思議だとかおかしいとは考えなかった。ただ息苦しさは日頃から感じていたので、多分無意識下で嫌悪していたんだろう。
大人になるとわかる。
誰もが何にでもなれるわけじゃない。
何にでもなれたはずの子供時代を経て、何にもなれなくなっている自分がいる。
家庭環境、その子の能力、努力、気力、お金、距離、全てが揃っている人間がどこへでも行ける招待券をもらうだけだ。
やってみなければ分からない、は自分の起こした行動が成功に繋がった一部の人間のみ許される言葉。
私はぼんやり生きながらどこへ行くんだろう。
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