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段ボールにまさる演技とは

息子が一ヶ月だけU-NEXTに加入したいという。

十八歳の息子がハマっているバンドは「ポルノグラフィティ」。今年で三十周年だとか。

昔のコンサートの映像など、DVDの中古などでは高値で買えないものが見られるという。

お試しの無料期間だけでも見たい、とのリクエストだ。

数日前、NHKの「最後の授業」という番組の柄本明さんの回を見たいと思いNHKオンデマンドを調べたら、どうもU-NEXTでないと視聴できないと勘違いして憤慨していた。

U-NEXTでちょうど俺も見たかった、と了解したところ、嫁さんも娘も観たいのがあるということで、みんな喜んでいた。

さて、と「最後の授業」柄本明さんをU-NEXTで観ようと(Amazonビデオ経由)検索すると、NHKオンデマンドで見られるようになっていてズッコケた。

早速観る。

柄本さんは怪優と言われているらしいが、怪物だ。

目つき、発想、周りの人間に投げかける言葉の強さ。

ちなみに「最後の授業」とは、各界のトップランナーが今日が自分の最後の授業だったら何を伝えるか、と言うのを一般の人から生徒を募って講義をする番組。

柄本明さんはまず出席者に自己紹介をさせる。

一通り自己紹介をさせると、また同じ自己紹介をさせる。

ここで、出席者に不穏な雰囲気が漂う。

一事が万事そんな感じで、みんな真意をはかりかね、ひたすら表情がこわばり、言われたことをやっては、「今それをやれたと思える?」と問われる。

ついたての裏から指名された人が出てくる演技。

みんな姿勢良く、無表情にも似た、そしてなんか演劇の人がいかにも舞台に上がってきたような顔で出てくる。

「いま本当に演じられていた?」

また柄本明さんの鋭い目つきと声が響く。

「みんな格好をつけたいんだよね〜。分かる分かる」

これはテレビドラマの悪影響だ、という。

自分が間違えてこの場にいたら、どんな演技をするだろう。

ある脚本が渡され、指名された人が、演技をしていく。

駄目だしがこれでもかと出てくるが、ある時に柄本明さんは二人の演技者に、(次ぎはこうやれ)とコソコソと話す。

口笛を吹かせながら登場させる。

これだけでも、演技の不自然さが少し消える。

次に、出来る限りの大声で台詞を喋らせ、それが終わると今度は、同じ場面をみんなに聞こえるギリギリの小声で演じろと、指示を出す。

びっくりした。同じ話と思えないくらい、印象が変わる。

演じている人も乗ってくる。

観ている人達からも笑いが漏れる。

「どうだ楽しかっただろう」と演じ終わった2人に柄本明さんが聞くと、二人とも面白かったと。

「演っている人が面白いことは、見ている人にも伝わるんだよ」と、

この話には小道具で大きな段ボールの箱が出てきて、壁の裏側から放り投げられて、ステージの真ん中に置かれるシーンがある。

ある時に、柄本明さんは裏方の人に指示して、投げられた段ボールだけをみんなで注目する時間を作った。

段ボールは飛び、大きな音を立てて着地し、その後は一切音を立てずに静に佇んでいる。

じーっと観る。

「名優だろ?みんなこんな演技ができるか?」

またシーンとなる。

「本当にどうすればこんな演技ができるんだろうね」

柄本明さんは駄目だしを、出席者にしているだけでなく自分にも、本当にずっとこの問題を人生をかけて考えているんだと思った。

先ほど話したついたての壁から登場する時のヒントも話した。

柄本さん自ら壁の裏側に行って、段ボールの着地の後に演じ出すが、ちょっとした動きなのに全く他の人と違う。

引きつけられる。

段ボールじゃなくて人間が演じているから、作為はあるんだけど、作為があるからこそ引き込まれる。

(何が違うんだろう)

すぐその後、柄本さんは言った。

これは「間」です、と。

一番シビれた瞬間だった。

演劇って、人類がまだ言葉を獲得していない頃に、洞窟の外で何があったかを伝える手段として始まった、と言っている人がいた。

またこのVoicyでは、子供の「ごっこ遊び」が人にとっての初めての演劇体験、とも言っていた。

 ◇ ◇ ◇

柄本さんはチェーホフのかもめが大好きで、この番組でも語られていた。

私もきっかけを頂いて、現代語訳のかもめの音読に参加した。

楽しかったし、現代語訳は読みやすかった。

しかし、それだけでは、これほどの人たちを魅了する「かもめ」の良さが分からない。

悲劇でもあり喜劇でもある、と言う。

でも、それを言うなら、この世は悲劇すぎて喜劇としか思えないようなことにあふれている。

それでもあえて、かもめが良いのはなんだろう。

それを知りたくて、東京でも最大級に大きな本屋さんに行って、昔のかもめの翻訳などをペラペラみたがしっくりこない。

ふと、ネットで検索すると出てきた。

これか!

言葉遣いは古いが、一言一言の言葉の情報量が大きく、その時代の熱が伝わってくる。

そこから浮かび上がってきたのは、近代的西洋的な自我に振り回される人々の模様。

夏目漱石もイギリスへの留学でそれを強く感じ、これからの日本を案じ、漱石自身もその波に呑まれて体を壊して亡くなった、と言う認識が自分にはある。

話はすっ飛びますが、チェーホフには「桜の園」と言う戯曲もあり、やはり同じ時代。

ほとんどの登場人物が近代的自我を持ち始めたストーリーのようでありつつ、それを持ち得ずあくまでも旧時代の執事としての人生を第一に終わる姿が最後に描かれている。

自我とはなんだろう。

そんな事を考えていた、酷暑の1週間だった。