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劣等感とコンプレックスと心臓の音

みなさんはコンプレックスとか劣等感ってありますか。

私は、昔、その塊でした。

大学に入り、一番仲良くなった友達はすごく本を読んでいて知識もある奴で、受験勉強をせずに附属校推薦で入った無知の自分にとって、彼がまず先生だった。

色んなことを教わった。

筒井康隆。

ブラックジョーク過ぎて最初は不快だったが、すぐに慣れて、不快なのは文章ではなくて自分自身の内面だということに気づき、それからは可笑しくてしょうがなくなった。

岸田秀。

「ものぐさ精神分析」という本を出した人。

時代の波に乗ってずいぶん人気作家にもなりました。

彼の本もかなり読んだ。

ブルーハーツの真島昌利も彼から相当影響を受けた、と聞いた気がするがGoogleで調べたら出てこなかった。

 ◇ ◇

自分の記憶だけを辿っているので、ずいぶん間違っているかも知れないが、「ものぐさ精神分析」に書かれていたいくつかのことを。

彼は生みのお母さんに育てられたわけではない。

でも育てのお母さんは、すごく優しい人だったらしい。

しかし、彼自身はいつからか精神的に不安定になり圧迫感を感じ、その原因を知りたかった。

ある時に、フロイト(ユングだったかも)の本を読み、苦しみから解放されたと。

彼は育ててくれた母親が小さい頃は大好きで、自分のことを愛してくれていると強く思っていたらしいが、それは本当の愛ではなくて、自分を支配するための愛だったことに気付いた、と書いてあった気がする。

愛というのは、すべてが無条件の愛だ、と思い込んでいた私には衝撃だった。

そんな事を疑うこと自体が、恐ろしく罪で、自分は生きる資格がないんじゃないかとすら思った。

しかし、読み進めるにつれて、「親のエゴ」と言うものはあり、この世に無条件の愛などは、ほとんどないと悟った。

目の前に見える世界が、音を立てて崩れていった。

不「安心と安全」の世界が目の前に開けたが、それでようやく見えてきた世界もあった。

その考えは今でも続いていて、自分の子供には、親のエゴの下らなさを人生かけて見せているつもりだ。

その本の中には劣等感についても書かれていた。

たしか、こんなことが書かれていた。

「こう有りたいと演じている自分」と「実際の自分」のギャップが劣等感。

自分をごまかして、こう有りたい自分を演じているのは卑怯だ、ぐらいの突き放した言い方を岸田秀はしていた記憶がある。

実際の自分なんて、本当にくだらない、醜いものだが、それを受け入れることなしに、劣等感など消えやしなと。

そんな本を読みながらも、自分は自分の劣等感を跳ね返したくて、生まれ変わりたくて、大学時代は虚勢を張って生きてきた。

そもそも、そんな劣等感の塊の自分でしかないなら生きている意味があるのか?

ぐらいまで。

その後、アメリカ系のクレジットカード会社に勤め、格好をつけて辞めて、山小屋で働き、外国人宿で働き、自分を叩き直して、劣等感を乗り越え、生まれ変わり、当時日本ではまだ希少だった外国人向けのゲストハウスを経営する一歩手前まで来た。

きついけどあと一歩、というところで、予想もしなかった途方もないハプニングに襲われた。

その時、自分の目の前に現れたのは醜い、何も変わっていない自分の後ろ姿だった。

言ってみれば、私は自分自身から逃げ出すために、人生をかけて自分から一番遠くに逃げたはずで、地球を一周逃げたぐらいの感覚でいたのに、ハプニングで目の前に現れたのは、ご苦労なことに正確に一周してしまって、自分の後ろ姿。

全く何も成長していない、心身ともにきたない、自分のケツだった。

がく然とした。

こんだけ頑張っても、醜い自分からは逃げられないのか。

それから、生き方を変えた。

この醜い自分を背負って生きていくしかない。

それ以外に、自分の人生を楽にする方法はない。

まさに、岸田秀さんが言っていたことだ。

それから、そろそろ三十年が経つ。

醜い自分と向き合うことは辛くもあったが、少しづつ、楽にもなってきた。

脳梗塞で死にかけたり、絶望するような出来事にも出会ったけど、自分の心臓の音を聞いていると、最後の最後に自分を無心で力のかぎり支え、生命を維持してくれているもう一人の自分に気づく。

醜い自分を見捨てなかったからこそ、同じように経験を乗り越えてきた、かけがえのない人たちとの出会いもあった。

これに感謝できれば、人生、良いんじゃないだろうか。

そんなことを、ある人の文章を読んで思い出した。

是非、岸田秀「ものぐさ精神分析」を読んでください。

私が記憶していることと、書いてあることが全然違って笑えるはずです。

では〜