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「名も無き生涯」と、自然に従い生きること

テレンス・マリック監督が自然露光で撮った映像は、誰が見ても文句なしに美しい。監督は自身と同じカトリック教徒である主人公の生涯を、その自然のように文句無く美しいものとして描こうとしたのだろうか。実際のところ、主人公に対する感想は観る人によって様々だろう。だからこそ、「善」について深く考えさせられる。

キリストが登場する前、古代ギリシャのストア派と呼ばれる哲学者たちは、「善」とは、自然に従って生きることであり、そうした「滑らかに流れる生」が目指すべき目標であると説いた。自身の欲望を出来るだけ抑えて、世界の秩序を守る。「ストイック」の語源となった彼らのスタンスは、キリスト教にも受け継がれている。

さて、この「名も無き生涯」では、「善」の転倒が起こる。オーストリアの山岳地帯の村で暮らす主人公は、カトリックを熱心に信仰しているあまり、ヒトラーに従って兵士になることを拒み、投獄されてしまう。カトリックを信じることはそれまでは「善」だったはずなのに、その「善」が、周囲に「悪」とみなされるようになる。

主人公を「悪」にした周囲の人たちは「悪」なのか? いや、周囲の人たちだって、本当は「善」でいたかったはずだ。主人公のような強い精神を持っていなかっただけなのだ。遠藤周作の小説「沈黙」(マーティン・スコセッシ監督が「沈黙 -サイレンス-」というタイトルで映画化している)も、キリストの教えを貫き通すか、楽な道に行くか、選択を迫られる状況を描いているが、そこでは強い精神を持てない人の苦しみに光が当てられている。

ストア派の言った、自然の秩序に従って生きるというのは一体どういうことなのだろうか、と思う。極限な状況下で、教えに背いてとっさに自分の命を守ってしまうことだって、自然の秩序に含まれているような気がするのだけれど。これは答えが簡単には出ない問題だ。

名も無き生涯」に希望があるとするなら、それは主人公の妻の言葉だ。音楽が全然無く、主人公も超無口な本作において、彼女の言葉は少ないながらも強い印象を残す。夫に助言したり、励ましたりする彼女を観るにつけ、やはり人は言葉なしには生きていけないなと思う。周りと折り合いをつけるためには、言葉による語りが、解釈が、どうしても必要だ。秩序を定める聖書も法律も、結局は言葉で、それに対峙するにはやはり言葉が必要なのだ。


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「名も無き生涯」、テレンス・マリック監督、2019年
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