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「ジョーカー」と、孤独の危険性

紹介がミスリーディングだと思う。「ジョーカーが悪になるまでを描いた物語」。これを聴いた人は、もう映画の話の筋を知った気になるだろう。しかし、実際の物語は、次どうなるのか分からない緊迫感に満ちている。

その緊迫感は、入り組んだ現実と嘘(虚構)から来ている。現実が嘘になった時、嘘が現実になった時、目の前の世界は反転する。反転の瞬間は、いつ来るか分からない。だから怖い。「マルホランド・ドライブ」とか、そういった映画を見ている時の緊張感を、まさかこの映画も与えてくれるとは。

もちろん、それに加えて「ジョーカー」は社会的な要素も持っている。ジョーカーが悪になることも、現実と虚構の区別がつかなくなることも、その根本的な原因には、主人公アーサーの孤独があるからだ。もし、彼が日常的に健全な人と繋がりを持っていたら。その人は客観的な視点で、現実と嘘を見分けてくれただろう。そうすれば現実と虚構の迷宮に囚われることもなかったかもしれない。

そうした健全な人との交わりの代わりに、彼はテレビを日常的に浴びる。そしてピエロを演じる。嘘を摂取し、嘘を吐き出すというわけだ。しかしこれは私たちにも言えることなのではないだろうか?舞台であるゴッサムシティの時代は60年代~70年代頃っぽいだが、現代は更に嘘が蔓延していると思われる。「メディアはマッサージである」とマクルーハンは言った。メディアの情報は刺激と快楽を与えるが、その行き着く先は現実と虚構の混乱なのかもしれない。

音楽も特徴的だ。アカデミー賞で賞を取った深みのある弦楽器のテーマももちろんいいけれど、テレビから聞こえる音楽、街で流れる音楽も、映画に華やかさを与えている。けれど何故か、その華やかさには軽薄さも感じさせる。映画で華やかな音楽が劇音楽として流れるのと、映画の中のテレビとかで音楽が流れるのはやっぱり違うのである。同じくベネチアで賞を取ったシェイプ・オブ・ウォーターの時はテレビの音も楽しそうだったのに。両者とも主人公は障害を抱え孤独ではあるものの、だいぶ描き方が違うなと思ってしまう。

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