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「アンドレイ・ルブリョフ」を、文学を読むように。

昔の文学を読むように、昔の名画を観ることができる、と思う。ただ昔の古き良き時代を懐かしむ、という目的ではなく。例えば夏目漱石の「こころ」が学校の授業で扱われるのは、明治時代の風俗を知る、という意味ももしかするとあるのかもしれないが、やはりメインは、時代を超えて普遍的な問いについて、考えることにある。

アンドレイ・ルブリョフ」を観始めた時も、50年以上前のソビエト連邦で制作された、中世のロシアを舞台にした映画、という事前情報を前にして、一体どういう態度で映画を見ればいいのか、よく分からなかった。制作された時期も、作品の舞台の時期もよく知らない。それでも作品に段々とのめり込んでいったのは、宗教画の画家である主人公が、ひたすら神や善、芸術について、哲学者のように深く考える人間だったからだ。

思えば、「罪と罰」を読もうと思ったのも、ロシアの話が好きだからとか、殺人事件が起きるからとか、そういう理由ではなくて、罪とは何か、罰とは何か、そういったことを知りたかったからだった。映画の話が進み、難解な部分に入っていくにつれ、罪と罰を読んでいるような気分になっていった。

両者には共通点がある(共通点というか、おそらくタルコフスキー監督が影響を受けているんだと思う)。ネタバレにならない抽象度で話すと、神(善悪の基準)=大地、という着地点だ。自分のいる場所の大地・自然と真摯に向き合うこと。それが神に対する敬虔な態度であるということ。それが、東洋と西洋両方の影響を受けた、ロシアが見出した答え、ということなのかもしれない。

しかしこの映画にしかない要素もある。遊牧民(タタール人)だ。土地を持たず、馬に乗って自由自在に動き回り、都市を襲撃する彼らは、土地・大地に根を下ろして敬虔に生きていこうとするロシア人と対立する。遊牧民は、映画が作られた後、重要な意味を持つ言葉になる。ドゥルーズ&ガタリの「千のプラトー」という哲学書に登場する概念、遊牧民(ノマド)。資本主義、消費社会にいる現代の人々を、自由な者として、ポジティブに捉えた言葉。遊牧民は本当にポジティブなものなのか。遊牧民が敵・野蛮・脅威として登場するこの映画を観ることで考えさせられることは多い。

ただ、やはり「アンドレイ・ルブリョフ」はロシア的な映画として作ってあるから、映画を観ることで、自分たちにとっての答えが見つかるというものではない。ロシアの人が、問題に対してどう考え、どういう回答を出したのかということを確認できるだけだ。やはり自分は自分自身で答えを見つけるしかない。

日本人としては、まず「神」の問題を考えなくてはならないだろう。西洋は「神」前提で考えているけれど、普段から真剣に神のことを考えている日本人は少ない。だから、西洋の考えをそのまま取り入れることは難しい。しかし、日本人は日本人としての、問題に対する答えを提示する映画を作れるはずだ。そのポテンシャルを持っているのは「ゴジラ」だと個人的には思う。

「アンドレイ・ルブリョフ」、アンドレイ・タルコフスキー監督、1971年公開

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