見出し画像

人間力の高い人とそうでない人の違い

今日は自己啓発セミナーに参加した。コロナ禍での研修、ソーシャルディスタンス、消毒などの対策をとりながらの少人数のセミナーだった。

講師の話をきいた。パワフルな講師だ。過去に色んな経験をしてきたことが生き方や立ち居振る舞い、そして話の深みなど随所で感じる。

今日改めて思ったのは

何を話すかではなく、誰が話すかが重要だと言うことだ。

同じ話も机上の空論の人の話と体験したり、深く考え感じたりしている人の話とはまったく違う。
そしてそれはその人から何やら見えないものが醸し出されている。

人間性はその人から出る
生き様はその人から滲み出る

机上の空論を語る人は私は好きではない。同時に私自身がそうならないように、世の中で提唱されているさまざまな理論についてそのまま語るのではなく、自分で確認し体験し実感し腑に落ちたものを実体験として語るようにしている。

また人前で話をすることは全てに置いて出来ている人でありたいと思っている。机上の空論しか語れない人と本物の人の違いは、その人が本当に実践しているかというのがその見極めだと私は思っている。

自分がそこまで行っているかというと決してそうではないと自覚している。そして言行一致する人でありたいし、日々振り返りたい。

ちょっとした懇親会があった。参加した方々と講師の皆さんと話をする機会があった。

受講生の1人が親への感謝の話や起こることに意味があるという話をしだした。

私はこの手の話が好きではない。"この手の話をする人"が好きではないという事が正しいようにも思う。

彼女は親が離婚した事で自分が苦しみを受け50歳前まで親を憎んでいたが吹っ切れた、親を許せた、どんな親であっても自分は生まれる時に親を選んでいたはずだし、その親に生まれた意味がある。だからどんな親も、そして起こるどんなことにも感謝すべきだと熱く語っていた。

何度も書くがこの手の話をする人が好きではない。

人は色々な境遇がある。
自分が何をされようとも親に感謝をしている、起こることに感謝をしているという話を自分主語に語るのは良いと思う。

しかし、"それをすべきだ理論"と、"何かあろうともそのことに感謝出来ない人は可哀想でダメな人理論"は聞いていて心地よくない。

その人はどんな経験で自分の思いが絶対的に正しいという話を語っているのだろうか。
本当に苦しい思いをした人は、何が起こっても人や事に感謝すべきだと他者には強要しないと思っている。

自分の大切な人を目の前で快楽殺人された人はその犯人に心の底から感謝できるだろうか。

自分の大切な人が本人の快楽や娯楽のためにいたぶられ痛めつけられている様子をお前も苦しめといい目の前で見せつけられる犯人に感謝できるのだろうか

自分の感情のままに犯され、廃人になってしまったとしても犯した相手に感謝できるのだろうか。


色んな経験をした人がいる、想像出来ないような経験をしている人がいる。そんな中で未熟な経験と想像力で人に感謝を強要する人間には私はなりたくない。

体験者でないとわからないことがある。同じ体験でも人によって感じ方は違う。その人の事はその人にしかわからないのだ。だからこそ自分の価値観を人に押し付ける人にはなりたくない。

人生経験値がある人とそうでない人の違いはここだと思う。
ここでいう人生経験値がある人とはいいかえると人間力の高い人だ。

人間力の高い人は自分の価値観を人に押し付けない。机上の空論を語らない。どこからか引用した知識を語ることはしない。自分で確かめたことを自分の経験下に相手の状況を見極めて相手の価値観も認識しつつ必要だと思うことだけを自分主語に語る。

知識だけかたり、あたかも自分はわかっている風を装っている人は自分の得た知識だけが全てであり、自分が体験した世界だけの世界感で物事を押し付けるようにべき論で語る傾向がある。

あらためて、2人の話を聞き、対比し人間力について考え感じた。
こうやって様々な人に出会える事は私にとってよい時間だと思う。生きているなら自分も人間力の高い人へと成長したい。

改めてそんなことを感じた一日だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?