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『サスペンデッド』に射し込む光──中村佑子『サスペンデッド』評

猪股 剛(ユング派分析家・臨床心理士)
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 ヤングケアラーという言葉は、古いものではない。この数年、さまざまな機会に耳にするようになってきたが、まだ新しい概念であり、いまでも言葉の中身を把握している人が多いとは言えない。しかし、言葉として定義されてはいなかったものの、「家族の中にケアを要する人がいて、大人が担うような家事や介護といった活動を引き受け、実際面でも心理面でも、家族のサポートを担っている子どもたち」は、ながらく存在してきた。
 たとえば、ある片親家庭の長男は13歳という中学校に通う年齢でありながらも、学校に通うことはできなかった。その母は子どもたち四人を育てるために、清掃会社・食品スーパー・居酒屋と三つの仕事を掛け持ちして、朝5時に家を出ると、帰宅するのは日付が変わる頃だった。長男である彼は、朝になると弟と妹を連れてコンビニエンスストアに行っておにぎりを買い食事を済ませる。そして、妹を保育園に送り届け、小学校に生き渋る弟と妹の面倒を見ながら、洗濯や掃除を済ませ、またコンビニに食糧を買い出しに行った。また別の高校生の女子は、統合失調症の母とアルコール中毒の父を持ち、母が語るさまざまな心配事に翻弄され、ゲームばかりしている父がときどき暴れるのから逃れて、何とかファーストフード店で働きながら自分の将来のための貯金をしていた。しかし、父や母からのお金の無心を断ることはできず、父や母がときおり語る「家族は共にいるのが大切なのだ」という思いを断ち切ることはできず、カウンセリングの中で、かなわないかもしれない美術家になる夢を私に語ってくれた。
 心理臨床という仕事をしていると、こうしたたくさんの子どもたちに出会い、またそうした体験をしてきたたくさんの大人たちにも出会う。すこし大げさに言えば、私のところに相談に来る方々の多くは、誰もが何らかの形でケアを引き受けている方、あるいは引き受けてきた方のようにも感じられる。もちろん私のところを訪ねてくるわけだから、彼らは、自分の精神的な症状を抱えている。だが、その実、その人個人の身体面や精神面を患って症状を抱えているというよりも、むしろ自分の周囲のさまざまな出来事を引き受けた末に、その個人を越えたものを担いきれなくなって、症状を呈していることが多い。確かに、彼らが意識的に引き受けている場合だけでなく、無理に引き受けさせられている場合もある。あるいは、引き受けているつもりのないまま、無意識的にその役割を担っている場合もある。ケアラーの立場が、能動的なのか受動的なのか、意識的なのか無意識的なのか、そのいずれかによって、状況は相当に異なる。だが、いずれにしても一つ共通していることがある。それは彼らが、通常私たちが見ている「自分を中心とした世界」に加えて、もう一つ別の世界を、つまり「自分以外の身近な誰かを中心とした世界」を、いつも目の前に見続けている点である。彼らにとって世界は一つにまとまることはない。いつもあらかじめ、そして必ず、二重になって存在している。中村佑子の『サスペンデッド』は、まさしくその二重性をリアルに感じさせてくれる作品である。

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 この作品を見るまで、私はそもそもAR(拡張現実)とVR(仮想現実)の違いもわかっておらず、作品の舞台となる部屋の入口で、ヘッドマウントディスプレイの取り付け方を係の人に教わりながら、これから何らかの仮想現実体験に入り込むのだろうと思い込んでいた。しかし、ディスプレイを付けて小さな家庭の一室に入ってみると、私には相変わらずその部屋が通常の現実として見えていた。仮想の世界は始まらなかった。だが、この普通に見えている家庭の一室と重なるように、もう一つの現実が動き始めた。私の目の前に映し出されるのは、私が今いる部屋と同じ空間の中に、かつていたであろうと思われる母娘の姿であった。この家庭の一室にいつか生活していたある母と娘が、私の目の前にいる。だがもちろん彼らは映像として見えているだけで私には触れることはできない。彼らが生活しているのは、いま私が立っているこの部屋の中であるが、彼らと私とは生きている時間がずれているようで、そのために二重写しで現実が見えるらしい。あるいは、時間ではなく、現実の層のようなものがずれているのかもしれない。目には見えるけれども、手には触れられない。そういう「もう一つの現実」がある。そのことを感じさせてくれるのが、どうやら拡張現実という装置らしい。そして、この作品は、拡張現実によってこそ真価を発揮する。
 このもう一つの世界で、母は精神的な病を抱えている。娘は自分の世界を生きながらも、その母の世界に繰り返し手を伸ばし続けている。母が調子を崩して寝ているときも、元気を取り戻して料理を作ってくれるときも、娘の姿を見て走って逃げ出すときも、「ただいま」と言って家に帰ってくるときも、この娘はおそらく届くことのない母の世界に向かって手を伸ばす。届かないとはわかっていても、そうして手を伸ばすことが、母をケアする手当てとなることを娘はよく知っているのだと思う。
 ドイツ語で「治療」のことをBehandlung〔ベハンドルング〕と言うが、これには「手を置く」という語源的な意味がある。そして、その語源を人類学的に辿ってみると、どうやらそれは原始的な呪医が行っていた行為に端を発しているらしい。呪医はその手を患者に向かって伸ばし、その患部に手を置く。すると、ある種の磁気的な効果が発揮されて、患者の中の滞っている不健康な状態が取り出されて、呪医の中に移ってくるという。そして、代わりに患者によりよい健康の力を与え、そうして患者は癒やされたらしい。つまり、呪医は患者に手を置くことで、その手を通じて、患者の中にある患部を自分の中に取り入れるのである。だが、それでは呪医が病気になりそうだが、呪医はそうして取り入れたものを、自然の中に返すことができた。呪医は一人一人、自然の中に自分の秘密の場所を持っていて、たとえばオーストラリアではチュリンガと呼ばれるような石を、その秘密の場所に隠し持っていて、ときおりその石に触れに行く。すると、自分の中に入っていた不健康な状態が今度はその石の中に吸い込まれていき、呪医は、自然から健康な力を取り込むことができたと言われている。これがBehandlungという「手当て」の語源にある民俗である。この「サスペンデッド」に現れる拡張現実世界の中で、一人の少女がその母に向けて行っている行為は、そのような手当てのように感じられる。しかしこの少女はもちろん呪医ではない。少女が媒介者となって、手を当てて取り込んだものは、一体どこに向けて返されるのだろう。彼女はチュリンガのような石をちゃんとどこかに隠し持っていられているのだろうか。そんな風に私は朧気ながらに感じていた。
 しかし、作品体験はそこに留まらない。その少女は、母に向かって手を伸ばすように、拡張現実の部屋の中で、それを見ている私の方に、その手を伸ばしてくる。作品としてそれを見ている私は、作品であると分かりながらも、その手に向かって自分の手を伸ばしてみたくなる。私は、この母娘とは同じ世界にはいない。それにもかかわらず、ふと手を伸ばしてみたくなる。いつかの別の時間帯に、どこかの別の現実層に、だが確かにこの同じ部屋の中に、母と娘はいるはずで、彼らの世界と私の世界は手を伸ばすことで接続できるのではないか。娘が母の世界に手を伸ばすように、私はこの母娘の世界に手を伸ばすことができるのではないか。そんなことを感じ始める自分がいる。私も手当てに関わってみようとし始める。
 作品体験がそのような段階に来ると、私が見ている現実も一つではないことを、私がリアルに知り始める。ヤングケアラーと呼ばれる人たちが、ごく自然に体験している「自分以外の身近な誰かを中心とした世界」を、作品鑑賞者である私が感じ始めている。「私を中心とした世界」の現実に、もう一つの現実が重ね合わされていく。そうして、私の現実が二重になる。私を中心とした世界に、もう一つの世界が重なり、二つの世界が共に動いていく。「自分以外の身近な誰かを中心とした世界」を、「自分の世界」と重ね合わせるには、どうやら拡張現実ほどふさわしい表現方法はないようだ。現代でヤングケアラーと呼ばれる人たち、あるいは以前から病の世界をよく知っている多くの人たちは、この二重写しの世界を生きている。そして、この二重写しの世界への入口を、中村佑子のこの作品は、私に向かって、ていねいに開いてくれる。
 だが、その上で、この作品の名称が『サスペンデッド』であることに、すなわち「宙づり」であることに、あらためて目を向けたくなる。いま私は、まるで二つの現実世界が簡単に接続できるものであるかのように発言してしまったが、おそらく二つの世界は、そんな風に接続できるものではない。二つの世界に気がついたとき、私たち一人一人は、この二つの世界の間でただ宙づりになるしかない。二重写しになっている拡張現実世界には、やはり手は届かない。しかも、この世界の二重性に一度気がついて、「自分以外の身近な誰かを中心とした世界」を感じ始めると、自分を中心とした世界に簡単に戻ることもできない。二つの世界の間で宙づりのまま、どうしたらよいかわからないまま、途方に暮れるしかない。しかしまさしくこれが、手当てに向かう前提条件でもある。拡張現実世界の中で、少女が体験している世界でもある。
 ケアに関心を持つ多くの人たちは、手を伸ばして、手で触れて、そのもう一つの現実を知り、それに共感し、できれば何か手助けをして、その現実を変えようとする。しかし、先ほども確認したように、手当てとは、こちらから何かを与える加療ではない。むしろ、あちらとこちらの交流である。すなわち、あちらとこちらを媒介することであり、その二つの間に身を置くことであり、そこで宙づりになることである。共感とは、こちらの感性で相手を理解することではなく、相手の感性に完全一致することでもなく、こちらとあちらの「あいだの世界」で、そこで宙づりになりながら、何かを新しく感じることである。

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 この作品は、ヤングケアラーに対する社会的な啓発の作品として見ることもできるが、本質的にはそれを目的として作られたものではないだろう。啓発は、こちらの世界にあちらの世界を取り込み包摂する作用を持つ。しかし、この作品は鑑賞者に宙づりになることを提案している。二つの世界の間で宙づりになる時、人はおそらくとても繊細でていねいに、まだ何も確定したものがない世界を手探りで感じようとする。そこでこそ初めて感じられるものがある。かつて精神科医の中井久夫は、統合失調症の人たちと関わるには、「心のうぶ毛」を震わせる感覚が必要だと説いた。宙づりになった私たちは、このような心のうぶ毛を震わせる準備を整えたのではないだろうか。拡張現実の中の娘が母に伸ばす時の手の微かな震え、母の「ただいま」という言葉に返答する「おかえり」に含まれる心の繊細さ、それを私たちは「あいだの世界」に身を置いたときにこそ、リアルに感じることができるのだろう。
 この『サスペンデッド』の中に差し込む光は、とても淡く繊細である。その光に私はとても心を惹かれる。だが、その光を希望と言い換えるのはやめよう。光は、ただ淡く差し込み続ける。さまざまなヤングケアラーたちの体験している現実を勝手に読み取るのは止めにして、この光に心を震わせながら、心の微振動を繰り返しながら、光を感じる作業を続けてみたい。いつかそれが二つのあいだの世界から新たな世界の暁光として立ちのぼるのを待ちながら。

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猪股 剛(いのまた・つよし)
1969年東京都生まれ。ユング派分析家、臨床心理士、公認心理師、帝塚山学院大学准教授。精神科や学校における臨床に携わるとともに、表現やパフォーマンスの精神性、現代人の心理の深層を思索する。著書に『心理学の時間』(日本評論社)、『遠野物語 遭遇と鎮魂』(共著、岩波書店)、『ホロコーストから届く声』(編共著、左右社)、『C.G.ユングの夢セミナー パウリの夢』(共訳、創元社)など。

©︎シアターコモンズ ’21/撮影:佐藤駿(会場)


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