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【東京五輪-世界と戦った日本勢②】

男子20km競歩の池田、山西が85年ぶりの複数メダル
池田の五輪競歩最高成績や、金メダル候補・山西の敗因などに競歩らしさ

 大会7日目(8月5日)、札幌大通公園内発着の南北往復1kmの周回コースで行われた男子20km競歩は、池田向希(旭化成)が1時間21分14秒で銀メダル、山西利和(愛知製鋼)が1時間21分28秒で銅メダルを獲得。期待された競歩初の五輪金メダルはお預けとなったが、1936年ベルリン五輪以来の複数メダル同時獲得の快挙を達成した。
 今五輪における陸上競技最高成績を収めたが、競歩らしさという点で内容的にも充実したレースだった。

●山西の17kmのスパートは不発に

 山西が勝負を決めに行ったのが17km地点だった。それまで4分04秒だった1km毎のペースを3分48秒まで上げた。反応できたのはM・スタノ(イタリア)と池田だけで、4位のA・マルティン(スペイン)は11秒、約50mも3人から引き離された。
 日本選手権や全日本競歩能美大会では、自ら仕掛けるスタイルで勝ち続けて来た山西。優勝した19年世界陸上ドーハは王凱華(中国)のペースアップに合わせ、王は後退しても山西はそのペースを維持した。同じ19年の国際グランプリ競歩ラコルーニャ大会は、スタノを引き離して勝っている。
 山西はつねに「地力」を向上させることに取り組んできた。地力が勝っていれば引き離せて当たり前であるし、歩型に不安のない山西は、思い切ってスパートできた。
 だが、東京五輪は違った。17kmでスパートして1分ほどで、3人の審判から続けざまにロスオブコンタクト(両脚が地面から浮いている反則)の注意を出された。注意を受けても直らなければ警告を出される可能性がある。警告が3枚出たらペナルティゾーンで2分の待機となり、その後4枚目が出されたら失格だ。山西はスパートして2分も行かないうちにスタノに前を譲っていた。
 18kmではスタノ、山西、池田が集団で歩いていたが、最初に後れ始めたのが山西だった。内田隆幸コーチは「今まで見たことがない顔のしかめ方でした」と振り返る。
 18km付近ではベントニー(ヒザが曲がっている反則)の警告も出されていた。この日、山西にベントニーの注意・警告を出したのはその審判だけで、競歩関係者によればこれまでも、山西にベントニーの注意を出すことが多い審判が1人いたという。今回もその審判からの警告なら、他の審判からは出される心配はそれほどない。
 だがレース中には、そこまで正確に状況が理解できない。山西は警告が1枚出たという事実しか把握できていなかった。
 内田コーチは「警告を1枚出されたことも、注意をあそこまで続けて受けたこともありませんでした。2人について来られていましたし、中盤のレース展開の失敗もあって想定より苦しかった。心の中で慌てていたのかもしれません」と、優勝争いから後退していく愛弟子の心中を推し測った。

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●山西の中盤の歩きに敗因

 本来であれば、注意を受けても動じないのが山西である。19年の世界陸上でも、注意は受けても警告は出されず先頭を歩き続けた。その歩きが東京五輪でできなかったのはなぜか。
 山西は敗因を「(中盤の歩きが)あまりにも中途半端になってしまい、立ち回りに無駄が多かった」と自己分析した。
 王が4km手前で集団から飛び出し、5kmでは50m近くリードを許した。王は18年ジャカルタ・アジア大会優勝者で、そのとき山西は2位と敗れたが、19年のラコルーニャと世界陸上では2連勝した相手だ。
 山西は第2集団の先頭に立つが、王との差を詰めようとはしない。世界陸上ドーハでは6km手前で集団を抜け出した王を追い、8km手前でトップに立った山西が、そのまま先頭を歩き続けて優勝した。だが今回は、“2kmの違い”が山西を躊躇わせた。
「王と一緒に速いペースに持ち込みたい」という気持ちと、「周りがもう少し追いかけてくれないかな」という気持ちが相半ばしていた。
 結局、王との差を詰め始めたのは10km付近から。2kmで約10秒縮める間に、先頭を歩いた山西が集団では一番力を使っていた。10kmまでの集団での歩きも、無駄な動きが多かったと師弟は悔いている。
 内田コーチは「王が出たときに一緒に行けばよかった。そうしておけば、他の選手の歩型を乱すことができたかもしれません」とレース展開を悔やむ。王のスパートも4分10秒前後から4分00秒前後に上げただけ。それも1kmだけで、爆発的なスパートではなかった。
 ここが勝負の(ポイントではなく)アヤだった。もしも山西に世界陸上金メダリストの肩書きがなかったなら、他の誰かが王を追いかけ、それに山西ら複数の選手が乗って違った展開になっただろう。勝負に出た17km以降の余力も持つことができたのではないか。
 ただ、これは仮定の話である。
 山西自身、自身がマークされることは覚悟していた。それを利用して自分のペースに持ち込めばいい、と大会前の取材で話している。どんな展開になっても自分のペースに持ち込むつもりだったが、王のスパートと集団が追わなかったことで、自分のペースを見失っていたともいえる。
 五輪や世界陸上に多いスローな展開にも、「今の地力なら十分に対応できる」と自信を持っていたが、「(準備段階で)これで勝てる、と思った自分の想定の甘さがすべてだった」と、現実を受け止めていた。

●2枚の警告で踏みとどまった池田

 19kmを過ぎてスタノに引き離されはしたが、池田が2位を確保して笑顔でフィニッシュした。銀メダルは日本競歩にとって五輪最高成績である。
「(17kmでは)山西さんが勝負を仕掛けているのがわかりました。ここで付かなければ勝ち目はありません。日本選手権や世界陸上で負け続けてきたことを、やっと生かすことができました」
 池田は8km手前と12km過ぎにロスオブの注意を出されたが、8kmでは注意を出した審判に対して大きく肯いているシーンがテレビに映し出されていた。自分の歩きを冷静に分析できていたのだろう。
「歩型には気をつけて歩いていましたが、安全策をとってどんどんペースダウンするのはよくないと思って、最後も強気で行きました」
 池田は18km過ぎと19km過ぎにロスオブの警告を出されたが、注意と違って警告は選手にパドルが提示されるわけではない。掲示ボードのナンバーに印が付けられるだけである。審判が警告を出してから掲示されるまでタイムラグが生じる。勝負に集中していた池田は、警告を出されたことに気づかなかった。
 ここも競歩ならではの勝負のアヤで、山西のように警告を出されたことに気づいていたら、池田の歩きに影響が出ていた可能性は否定できない。もちろん、最近の池田は歩型に自信を持っていたので、気にせず押し切ることができたかもしれない。
 実際、警告を出されたことに気づかずに歩いたが、池田に3枚目の警告は出なかった。スピードを出した中でも歩型をキープできていたことが、銀メダルにつながった。

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●世界で戦う20km競歩に

 池田のコメントにあるように、山西に負け続けたことが池田の成長をうながしたのは確かだろう。山西に勝つための準備をしてレースに臨んでも、山西が池田の想定を上回るレースを実行して勝ち続けた。19年世界陸上(6位入賞)を最後にコロナ禍で海外レース出場ができなくなったこともあり、国内レースで山西を“世界トップ”と位置づけて目標としてきた。
 だが池田は、山西だけを見ていたわけではない。山西に勝つための努力は、世界のトップ選手全員に勝つことを考えてのものだった。
 昨年5000mWでは世界歴代4位の18分20秒14(日本最高)を、10000mWでは世界歴代2位の37分25秒90を出している。完全に世界トップレベルのスピードを身につけた。20km競歩の勝負どころではかなり速いペースになるが、そのときも動きに余裕を持たせることが目的で、今回17kmで山西が3分48秒にペースを上げたときにも対応することができた。
 東洋大時代から引き続き池田を指導する酒井瑞穂コーチは、「山西選手に気づかせてもらった」と強調する。「技術もレース展開も心も、山西選手に挑戦し続けたことが池田の成長につながったと思います」
 レース中盤、集団の中で歩いているときも、山西の背中を見る位置で歩けば安心感を持てた。だが山西だけでなくイタリア、スペイン、中国など世界トップクラスの選手たちの反応にも気を配っていた。特にスタノは、池田が優勝した18年の世界競歩チーム選手権で終盤まで競り合い、3位に入った選手で意識していた。
 山西に勝ったことより、山西に刺激を受けてレベルアップした池田が、世界と渡り合ったことが重要だった。
 15年の世界陸上北京大会50km競歩で谷井孝行(自衛隊体育学校。現コーチ)が銅メダルを取って以降、日本の競歩は全ての五輪&世界陸上でメダルを取り続けているが、地元の東京五輪で途切れてしまったらその流れに穴が空く。
 15年世界陸上北京、16年リオ五輪、17年世界陸上ロンドン、19年世界陸上ドーハと50km競歩はメダルを取り続けたが、20km競歩では19年世界陸上ドーハ金の山西が初メダルだった。その山西を追うことで日本のレベルが上がり、世界で勝ったり負けたりを繰り返すことができるようになった。
 東京五輪で金メダルを逃し、選手や強化関係者は悔しさが大きいだろうが、東京五輪までの流れや今のレベルを継続できれば、これからも世界のトップで戦っていける。85年ぶりの複数メダルの意味は、日本の競歩界にとって極めて大きい。

TEXT by 寺田辰朗
写真提供:フォート・キシモト

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