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【東京五輪-世界と戦った日本勢⑤】

大迫が6位入賞で「100点満点の頑張り」と言えた経緯
2人の恩師が引退レースに見た“大迫らしさ”

 東京五輪陸上競技最終種目の男子マラソン(8月8日、札幌開催)は、世界記録保持者のE・キプチョゲ(ケニア)が圧倒的な強さを見せつけた。30km過ぎにスパートすると、35kmまでの5kmを14分28秒にペースアップ。2位のA・ナギーエ(オランダ)に1分20秒差をつけて五輪2連勝を果たした。優勝記録は2時間08分38秒。日本勢トップは今大会が現役最後のレースと表明していた大迫傑(Nike)で、2時間10分41秒の五輪日本人最高記録で6位に入賞した。銅メダルのB・アブディ(ベルギー)とは41秒差。92年バルセロナ五輪を最後にメダルから遠ざかっている男子マラソンでも、メダルも望めることを示した。
 大迫の高校時代のコーチだった佐久長聖高・高見澤勝監督と、早大時代の大迫を指導した住友電工・渡辺康幸監督に、大迫の東京五輪の印象を話してもらった。

●100%の力を出すための本番10日前の引退表明

 本番10日前に五輪を現役最後のレースとすることを発表した大迫。「東京を競技人生の最高のゴールにするため。次があるっていう言い訳をなくしたくて、この大会をゴールにしました。持てる力の全てが出し切れる気がします」と自身のYouTubeで説明した。
 確かに異例のことだが、目の前のマラソンに全力を出し切るというスタンスは以前から持っていた。2回目のマラソンとなった17年12月の福岡国際(3位・2時間07分19秒)後に、東京五輪までのプランを質問したことがあった。
「東京五輪は僕にとって大きなものですが、3年後を意識するより1つ1つの大会、1つ1つの練習を大事にしていきます。東京五輪を目指して何かをする、というより、次のマラソンにベストを尽くしたい」
▼大迫傑のマラソン全成績
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17年4月:ボストン3位・2時間10分28秒
17年12月:福岡国際3位・2時間07分19秒
18年10月:シカゴ3位・2時間05分50秒(※日本人初の2時間6分切り)
19年3月:東京 途中棄権・30km手前
19年9月:MGC3位・2時間11分41秒
20年3月:東京4位・2時間05分29秒(※当時日本新)
21年8月:東京五輪6位・2時間10分41秒(※五輪日本人最高記録)
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 もちろん1レースずつを大事にしていった積み重ねが、東京五輪につながると考えていたのだろう。そうして走り続ける最後を東京五輪とした。そこで全力を出し切る手段として、引退を表明することはあり得ることだった。渡辺監督もそこを指摘する。
「マラソンは1レースの準備にかける時間、労力、周りのサポートなどが膨大になります。大迫はトラックも大事にしていましたが、マラソンを走るようになって試合の重みをより感じていたと思います。最後もその姿勢をぶらさず貫いたのでしょう」
 五輪を特別に考えてはいたのは確かだが、大迫は自分の力を100%発揮するために、これまでと同じように全力を出し切るスタンスで東京五輪に臨んだ。

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●メダル狙いより、100%の走りをすることが大迫スタイル

 五輪や世界陸上では珍しくなくなった周回コース。30.6km付近でキプチョゲがスパートすると、大迫は徐々に2位集団からも後れ始めた。しかしそこから“大迫らしさ”を発揮する。35kmでは24秒あった2位集団との差を、40kmでは18秒にまで縮め、メダルもあるのでは、と見ている側の期待を高めた。
 結局、最後は腹痛も生じてしまい、5位のA・ラムダゼム(スペイン)に25秒、銅メダルのアブディには41秒届かなかった。レース後に複数のメディアに、30km過ぎに2位集団と距離を置かずに食い下がる選択肢はなかったのか、という意見が掲載されていた。冒険的なレース展開をすることで、100%以上の力が出せることもある。力が下と思われる選手が勝つには(今回で言えばメダルを取るには)、失速するリスクがあっても2位集団に付くべきだった、という内容だ。
 その点について渡辺監督は「世界のレベルを知っている選手だから」と、大迫の走り方を支持する。
「大迫はM・ファラー(英)やG・ラップ(米国)と同じチームでしたし、ケニアでも長期間トレーニングをしてきました。マラソンでも10000mでも、持ちタイムが上の選手はたくさんいる。25km、30kmでは力を蓄えておかないと、終盤失速することもよく理解しています。彼はそれだけ経験しているし、自分の体のこともよくわかっています。メダルを期待されているのはわかっていても、簡単じゃないことは大迫が一番わかっていた。引退レースで自分らしくない走りをするより、最後は自分らしく100%を出す走りで終わりたかったのだと思います」
 大迫といえば、チャレンジする姿勢を貫いてきたことで知られている。自分より強い選手に挑み続け、そのためには厳しいと思われる環境にも身を置いてきた。
 失敗覚悟の走りも成長につなげることはできるが、プロとして、走ることで生計を立てる選手として、その方法は選択しにくい。その代わりではないが、つねに優勝が難しいマラソンに、今の自分がどこまで通用するか、というレースを続けて来た。
 これも17年福岡国際マラソン後の取材で、大迫は「100%の力が出せたと思います。1位と2位の選手が僕の100%を超えていた、ということ」と話している。
「(100%を出すためには)惑わされないというか、車でいうとメーターを振り切らないことです。限られたガソリンの中で、省エネで走りきること。速い車がいっぱい走っていると流されて、自分もアクセルを踏んでしまいますが、自分のメーターで走るのが大事だと思います」
 20年東京マラソンでも、一度先頭集団から後れてからリズムを立て直し、先行していた選手を抜いて2時間05分29秒(4位)の、当時の日本記録を出している。
 現役最後のレースをフィニッシュした大迫は、珍しく感傷的になってはいたが話した内容は清々しかった。
「やりきったというところです。皆さんにメダルを期待してもらっていて、僕自身もチャンスがあればと思ったんですけれど、今回はそういうチャンスがなかったというだけで、しっかりと自分自身の力は出し切れたと思います。(2位集団を)追うというより、自分の力を100%出し切るんだ、という思いでリズムを意識して走っていました」
 大迫は多くの選手が力を出し切れない五輪という舞台でも、自身の走り方を見失わなかった。

●故障が少なかったことが大迫の強さ

 大迫が入賞という結果を残すことができた要因の1つに、故障をしないで練習を継続できたことが挙げられる。故障をしない選手は存在しないし、大迫も最初からケガをしなかった選手というわけではなかった。
 大迫が佐久長聖高在学時にコーチだった高見澤監督は当時現役で、大迫が2年時(08年)には北海道マラソンで優勝している。負けず嫌いの大迫は“上級生に挑む日”を設定するなど、高校時代から力が上の選手に挑戦してきた。5000m13分台と、高校トップレベルの記録を出していた大迫である。高見澤監督と大迫は、練習で勝ったり負けたりしていた。
 高見澤監督は、ケガで苦しむ大迫を間近で見た数少ない関係者だ。
「ウチが全国高校駅伝(12月)で初優勝したときに2年生の大迫はアンカーでしたが、そのときからアキレス腱に痛みを抱えていました。優勝テープを切るために無理をしたのかもしれません。3月までまともな練習はできませんでした。何とか合わせてインターハイ全国大会に進みましたが、1500mも5000mも14位。相当に悔しそうでしたね。そこから体のメンテナンスをよりしっかりと行うようになりました。速くなるためのフォームの追求と、ケガをしないことをどう両立させるかを、3年生の後半は考えているように感じました」
 ケガで走れなかった体験は強烈だったのだろう。その後の大迫は、判明している限り長期間の練習中断はしていない。早大では学生三大駅伝(10月の出雲全日本大学選抜駅伝、11月の全日本大学駅伝、正月の箱根駅伝)は1年時から皆勤出場。インカレも5月の関東インカレ、9月の日本インカレの4年間8大会で、欠場したのは3年時の日本インカレ一度だけ。在学中も卒業後も重要な国内試合、代表となった国際試合は全て出場し、その時点の力は発揮している。
 鉄人ぶりを見せ続けてきた大迫だが、渡辺監督によれば大学時代も、まったく故障の心配がなかったわけではない。4年時の箱根駅伝前に1カ月ほど米国でトレーニングをして帰国した際、アキレス腱をしきりに気にしていたという。
「ギリギリのところで故障を回避して、練習を継続していました。大迫が故障を避けられるのは体との会話をしっかりと行い、練習にブレーキをかけられて、ケアを当たり前に行えるからです。食事の管理など日常生活でも、競技にマイナスとなることは絶対にしない。そういった意識の高さは、他の選手とは比べものにならなかった。競技に取り組む姿勢は世界トップレベルだと思います」
 大迫も自身の著書「走って、悩んで、見つけたこと。」(文藝春秋刊)の中で故障に対する自身のスタンスを述べている。単純に休むのでなく、どこまで走れるかを試し、痛みの現れ方でどう走るかを判断していたという。完全に休んで筋力が落ちれば、別の部位に痛みが出てしまうリスクもある。走ることと故障が悪化しないことを、正確に見極めて両立させていたようだ。
 自分の体の状態を正確に把握し、絶対に無理はしない。その上で痛みに対して弱気にならずに、何ができるかを冷静に判断する。マラソンで見せる走りと共通する部分が、故障に対する大迫の考え方にはあった。

●強くなるために周りを巻き込み始めた大迫

以前の記事でも紹介したが

大迫は種目の距離を伸ばすときの順応力は高かった。高校時代に駅伝で10kmを走ったとき、大学1年でハーフマラソンのU20日本記録(当時)を出したときなどだ。それはリオ五輪翌年に、マラソンに進出した際も同じだった。
 高見澤監督は大迫がトラックで日本新を出すことは(現在も3000mと5000mの日本記録保持者)、高校時代から予想していた。だがマラソンにスムーズに移行できたことは、予想外でもあると同時に思い当たる部分もあった。
「動きや走りのセンスを見て、トラックでは日本代表になると思っていました。本人もトラックで世界と勝負したいと言っていましたが、リオ五輪で通用しなかった(10000m17位、5000m予選落ち)。世界で戦うためにマラソンを選んだのでしょう。ただ、性格は高校の頃からマラソン向きでした。すごく負けず嫌いで、我慢強さが群を抜いていた。それはトラックにも結びつくことですが、マラソンにはなくてはならない要素です」
 高見澤監督は精神面の成長も、競技力、特にマラソンでは大きかったと感じている。
「大迫は自分の競技力を伸ばすことしか考えないようなところがありました。それが結果として子どもっぽい行動になったこともありましたが、卒業後は大人になっていきましたね。早大に進学し、日清食品グループを経て米国に留学して、競技の成長もすごいと思っていましたが、会う毎に周りのことも考えられるようになってきた。強くなるためには周囲を巻き込み、周りの力を借りることも重要だとわかっていったのだと思います」
 東京五輪のフィニッシュに向かう大迫は、沿道に向けてか、あるいはテレビで見ている人たちに向けてか、手を振りながら走った。「応援してくれた人、協力してくれた人への感謝の思いを込め、“やり切りました”と表現しました」と大迫。高見澤監督を喜ばせたシーンだった。

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●真っ直ぐに走ってきた大迫は今後も

 大迫は東京五輪のレースだけでなく、競技者としても完全燃焼していた。
「(今日のレースは)順位はどうあれ、しっかり走り切ることができました。(自分に)100点をあげたい。(ここまで挑戦してきた競技人生も)頑張ったな、と思います」
 これまでも100%を出したと自己評価はしてきたが、ここまで自分を褒めたのは初めてだろう。上に挑戦し続けてきた大迫だけに、そこは意外に感じた関係者が多かった。次のレースに挑戦しなくていい立場になったことで、構える必要がなくなったからだろう。
 渡辺監督は東京五輪で100%を出すことの難しさもあったのでは、と推測する。
「コロナや1年延期で本当に苦労が多かったのでしょう。気持ちや体が持たないことも、大迫にも起こって不思議はなかった。そのなかで100%の準備をしてきた。それでも五輪には自分より力が上と思える選手が10人以上は出てくる。そのレースでメダルが見える位置でやり切ったのは、彼の最後のプライドだったのかもしれません。全てが終わった、という安心感が言わせたのだと思います」
 競技として次への挑戦をしなくていい立場を自身で受け容れられるのは、次に自分がやりたいことがすでに見えているからだろうか。大迫は今後の活動の1つとして、後進の育成を手助けしていくプランを具体的に持っているという。
「(東京五輪の6位や自分のこれまでが)しっかりと次の世代につながるように、陸上界に関わっていきます。引き続き真っ直ぐに進んでいきます」
 時には自分中心と受け取られた行動も、米国やケニアの環境に飛び込んだことも、それが世界への近道だと判断したからだ。東京五輪前に引退を公にしたことも、30km過ぎに無理に第2集団につかなかったことも、すべては世界と戦うことを考えてのことだった。
 最後まで真っ直ぐに走り続けてきた大迫は、五輪6位の結果を残し、今後は陸上界を発展させるための活動を真っ直ぐに走っていく。

TEXT by 寺田辰朗
写真提供:フォート・キシモト

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