【第55回織田幹雄記念国際③ 寺田明日香日本新】
寺田が自身の日本記録を0.01秒更新する12秒96
ママさんハードラーの多角的な“成長”
織田幹雄記念国際が4月29日、広島市のエディオンスタジアム広島で行われた。男子110 mハードルで金井大旺(ミズノ)が13秒16(+1.7)と世界レベルのタイムを出したのに続き、女子100mハードルでも寺田明日香(ジャパンクリエイト)が12秒96(+1.6)と、北海道出身ハードラー2人が日本新をマークした。寺田の日本記録更新は、タイ記録も含めると3回目。引退(13年)、出産(14年)、7人制ラグビー(16年~)を経て18年12月に陸上競技に復帰(試合出場は19年4月)。織田記念では長女の果緒ちゃん(6歳)とともに新記録掲示のタイマー写真に収まった。
●日本初の母子揃っての新記録記念撮影
寺田は強かった。
昨年の日本選手権優勝の青木益未(七十七銀行)を3台目あたりで引き離すと、成長著しい鈴木美帆(長谷川体育施設)の追い上げも許さなかった。後半は2位以下を圧倒し、2位の鈴木に約3mの差をつけてフィニッシュした。
ゴール脇の非公式の速報タイマーは、12秒97で止まった。自身が現役復帰1年目の19年に出した日本記録と同じ数字だった。
「私はタイ記録が多いので、“またかー”と思いました。タイ記録と新記録はたった0.01秒の差ですが、気持ちの面では大きく違います」
19年に2度日本記録を出したが、最初の日本記録は13秒00の日本タイだった。金沢イボンヌが00年に出したタイムに並び、19年ぶりという価値はあった。だが日本人初の12秒台と、世界陸上ドーハの標準記録(12秒98)突破ができなかった。
しかし2週間後、9月1日に富士北麓(山梨県)で12秒97を叩き出した。日本人初の12秒台でドーハの標準記録も突破。09年ベルリン大会以来、寺田を10年ぶりの世界陸上出場に導いた記録である。寺田にとって、大きな意味のあるタイムだった。
富士北麓では夫の佐藤峻一さんも果緒ちゃんも、スタンドでそのレースを見守っていた。だが、記念の日本新タイマー撮影は寺田単独で行った。それが普通なのだが…。
「そのあとドーハで果緒が、外国人選手が子どもと一緒に記念撮影をするシーンを見て、『私もやりたい』と、ちょっとジェラシー感を出していたんです」
今回の織田記念ではすぐに、正式記録は12秒96と発表された。風は追い風1.6mで公認範囲内(追い風2.0m以内)である。速報タイムを見たときは両手を、頭の上でつないで▽を作っていたが、12秒96と表示されると両手を挙げて何度も跳びはねた。そしてすぐに、スタンドの夫と愛娘に向かって「降りてきて」と何度も手招きし、タイマーを指しながら果緒ちゃんに「おいでっ」と叫んだ。
最初は2年前と同じ単独でのタイマー撮影に応じていたが、果緒ちゃんが来ると抱きかかえ、親子一緒にタイマー撮影を行った。正確なデータがあるわけではないが、ママさん選手の日本記録更新自体、寺田が初めてではないかと言われている。ママさん選手と子どもの2人が一緒に新記録掲示と写真に収まるのも、間違いなく日本初の出来事だった。
●陸上競技復帰後は“チーム明日香”での強化
寺田は13年の引退までを、「第1次陸上競技時代」という表現を使う。当時は寺田自身の素質や感覚、中村宏之監督の指導が大きかった。中村監督は女子100 m&200 m日本記録保持者の福島千里(セイコー。当時北海道ハイテクAC)や、跳躍のトップ選手を何人も育てている名伯楽である。
だが第2次陸上競技時代はコーチ、トレーナー、マネジャー、管理栄養士など、「チーム明日香」を自身で編成。「復帰するからには世界で戦う」ことを目標に、第1次時代とは異なる競技環境を自身で構築した。
特に高野大樹コーチの考え方やコミュニケーション方法が、第2次時代の寺田には合っていた。高野コーチは物理学やバイメカニクス(生体力学、あるいは生物力学と訳される)の視点からアドバイスを行い、時には寺田の感覚と一致しないこともあった。
例えば選手がクセを修正するときは、「気持ち悪さ」(寺田)を伴う。ハードル種目では身体能力の変化や目指す動きで、踏み切り位置を変えるべき状況も生じるが、ハードルと体の距離を変えると感覚的に違和感が生じるのが普通である。だが寺田は、自身の感覚より第三者の目を信じると決めたら、気持ち悪さに立ち向かった。
高野コーチもそうした部分に立ち入るために信頼関係を重視し、通常の練習でも「練習時間の半分」(高野コーチ)は話し合いに時間を費やしている。コーチの見方と選手の感覚が異なったときは、どちらかが納得できるまで話し合う。選手の目的意識が高ければ、その作業をするときに指導者が声を荒げたりすることは必要ない。先生と生徒ではなく、大人の選手と仕事としてサポートするスタッフ、という関係性で“チーム明日香”は進んでいる。
●形になってきた「接地を素早く行う走り」
第2次陸上競技時代に入り、高野コーチと話し合いながらいくつもの技術を変更してきた。寺田が19年、20年に課題として話していたものの多くが、今は解決しつつある。そのうちの1つがハードル間の走り方である。「接地のタッチを素早く行うようにしたい」と、寺田は昨年まで何度か話していた。
高野コーチによれば「インターバルの走りも踏み切りも、長く押すクセがあったので、スプリント(純粋な短距離の走り)と同じように接地時間をできるだけ短くしようと取り組んできた」と言う。
練習でスプリント能力の指標としているメニューが60mで、「前半30mのダッシュと後半30mの加速走」に分けて走っているが、そのメニューを織田記念の3日前に行って自己新が出ていた。「ハードリングにつながれば良い記録が出る」と寺田には話したという。
織田記念を走って寺田は、「去年に比べ1、2、3台目あたりは良くなっていますが、まだ完全じゃない」と言う。高野コーチも「1台目から2台目のところで少し押しすぎていた」と言う。
だが、スプリントの向上は確かで、寺田は「スプリントが安定したことで、ハードリングがズレてもちょっとのズレで収まっている」と手応えがある。練習の中で調子が悪いことが少なくなっているのは、技術を安定させるためには大きい。
とはいえ、「せっかくスプリントが上がったのに、ハードリングが粗くなっているのはもったいない」と強く感じている。逆に言えば、まだまだノビシロがある。
ハードル技術が細かい部分まで正確にできれば、0.01秒という最小数値ではなく、大きく自己記録を更新する可能性がある。1台で0.01秒短縮できれば、10台で0.1秒タイムが良くなる。本来、男子の金井が自己記録を0.11秒更新したように、大きな記録更新が起きるのがハードル種目である。
次は12秒84の東京五輪参加標準記録を破り、果緒ちゃんとともにタイマー写真を撮るシーンを実現させたい。
TEXT by 寺田辰朗
写真提供:フォート・キシモト
フォトフィニッシュデータ:SEIKO