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「たとえ一片の骨だけでも・・・」スレブレニツァの虐殺から25年、未だ遺骨を捜し続ける母たち

25年遅れの父の埋葬

《埋葬する息子の写真》《過去映像・戦車の写真》

泥まみれになりながら、父親の遺骨に土をかぶせる男性がいた。捜し続けた25年間。やっと父を土に返せる日がきたのである。素手で土をかき分ける男性の目からは、時折涙がこぼれていた。

2020年7月11日、ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァイスラム系住民約8000人が虐殺された事件から25年の追悼式典。会場となった集団墓地では、この1年間に新たに身元が確認された、9人の遺骨を納めた緑色の棺が埋葬された。

《運ばれる緑の棺》

そのうちの1つが男性の父親だったのである。埋葬を終えると、男性の家族が肩を寄せ合って、涙を流していた。その光景に、25年間必死の思いで捜し続けた、家族の苦悩がみてとれた。後ほど詳述するが、埋葬までに25年の歳月がかかったのには、深い理由があったのである。


虐殺の町・スレブレニツァ

note用写真)スレブレニツァの町

旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ東部の町、スレブレニツァは約1万人が暮らす小さな町だ。私は今年3月11日、初めてボスニアのスレブレニツァを訪ねた。町の中心部にはキリスト教の教会とイスラム教のモスクが並んで立ち、長年セルビア系住民とイスラム系住民の二つの民族が共存してきたことがわかる。

内戦前はイスラム系住民が人口の7割、キリスト教徒のセルビア系住民が3割近くを占めていた。今も飲食店や喫茶店などで、2つの民族が鉢合わせすることがよくあるという。表面上は平静さを保ちながらも「互いに触れてほしくない心の傷跡」を刺激しないよう意識し、日々を暮らしているようにも感じられた。

スレブレニツァ写真00000001

1992年に始まったボスニアの内戦で、スレブレニツァはセルビア系勢力に包囲され孤立。セルビア系勢力は1995年7月、女性や小さな子どもたちをスレブレニツァから追い出し、イスラム系の男性や16歳以上の少年約8000人を虐殺した。この「スレブレニツァの虐殺」は、第2次世界大戦後のヨーロッパで起きた、最悪のジェノサイドとして悪名高い


母たちの闘い

《集会所での写真バックのハイラ写真》

無数の男性や少年の写真に囲まれた一室。女性たちはその一人一人の名前を刺繍にしたクッションを作っていた。ここは息子や夫を亡くした女性が、悲惨な虐殺事件があったことを忘れさせないために立ち上げた「スレブレニツァ母の会」の集会所だ。1000人以上の犠牲者の行方が未だに分かっていない。息子を捜し続けているハイラ・チャーティッチさん(75)は「たった1本の骨でもいいから見つけてほしい」と捜索の強化を訴えている。

《自宅でのハイラ》

ハイラさんは内戦中、セルビア系住民に奪われた自宅に戻ってきた。虐殺された夫の遺骨は見つかったが、息子のニハドさんは行方不明のまま。家族を亡くした多くの女性はスレブレニツァを離れたが、ハイラさんはこの町にとどまり、息子を捜し続ける道を選んだ。「あなたたちは全員を殺せていない。この私はまだ生きているよ、という抵抗したい気持ちが私にはあるのです」

西村さんnote差し替え用ニハド写真

25歳だったニハドさんは、手をこまねいていた国際社会に向けて、無線で町の被害を伝える活動をしていた。ハイラさんは生前最後のニハドさんの無線の音声を私に聞かせてくれた。

「スレブレニツァの人たちが家畜のように殺されています。スレブレニツァに訪れた悲劇を誰か見てください」

セルビア系勢力の攻撃が迫る中、必死に惨状を伝えようと、緊迫した声を上げるニハドさん。その声を聞くハイラさんは、次第に表情を曇らせ、ふっとため息をついた。「私はめったにこれを聞くことができません。息子の声・・・。それを聞くのは本当につらいんです」


物言わぬ遺骨

《遺骨がたくさんある部屋》

数千もの遺骨が保管されている施設には、今も身元確認に訪れる遺族の姿が後を絶たない。スレブレニツァでは、まだ1000人以上の犠牲者の身元が判明していないからだ。内戦中、セルビア系勢力は虐殺の証拠を隠すため、遺体を別の場所に埋め直したことで、DNAの鑑定作業は難航している。

《骸骨などが置かれた写真》

遺骨の保管部屋は空調で温度が低く設定され、肌寒く感じられる。私はしばらくの間、この部屋にとどまり、それぞれの遺骨に目を凝らした。これらの遺骨には、一人一人の人生や家庭が確かに存在していたはずである。そして、ハイラさんのように「たとえ一片の骨だけでも戻ってきほしい」と、25年間待ち続ける家族の存在も未だに多い。あらためて戦争がもたらす傷跡の深さと、残酷な時の経過を痛感させられた。


深まる民族間の感情的対立

《セルビア側の追悼式典の写真》

ボスニアは今も「分断国家」で、ボスニアの中には「スルプスカ共和国」というセルビア人自治区がある。町の至るところに、スレブレニツァの虐殺を指示した司令官ラトコ・ムラディッチ被告(国連の戦争犯罪法廷で終身刑の判決を受け、上訴中)のポスターが貼り出され、英雄視されている現実に私は驚かされた。

スルプスカ共和国内では「イスラム系住民を殺害しなければ、自分たちが殺された」との感情が支配的である。スレブレニツァ虐殺を正当化する人や「虐殺自体なかった」とまで主張する人もいた。


ボスニア入国に立ちはだかる壁

《追悼式典雑感》

私は7月11日に行われる、スレブレニツァ虐殺の25年追悼式典の取材には、絶対に行くつもりだった。ハイラさんにも必ず行くと、約束していたからである。しかし、その前に大きく立ちはだかった壁があった。新型コロナウイルスの問題だ。

ボスニアでの感染者数は、西ヨーロッパ諸国と比べると高くはないが、私が入国する頃にはボスニアでの1日あたりの感染者数が最多を更新するなど、著しく増加傾向にあった。首都サラエボにある日本大使館に問い合わせると、セルビア、クロアチア、モンテネグロの近隣3カ国以外の外国人の入国は原則禁止と言われる。「万事休すか」と頭を抱えたが、例外措置として,商用の場合は入国前の48時間以内のPCR検査で陰性を証明できれば、入国できることを助言してもらった。

スレブレニツァPCR検査写真

事前に追悼式典の実行委員会に取材のための招待状を発行してもらい、隣国クロアチアでPCR検査を行った。検査結果が出るまでの約10時間、少し緊張したが無事、陰性の結果が出る。翌日、私たちは陸路でボスニアの国境検問所に向かった。検問所では入国審査官の女性が当初、私たちの書類の不備を指摘し、厳しい態度を見せた。「ここまできて、入国できなかったらどうしよう」という不安が頭をよぎる。

しかし、女性が態度を一変させる出来事があった。私たちが「スレブレニツァの25年追悼式典の招待状」を見せた時である。女性は招待状の内容を見ると「わざわざ、取材に来てくれてありがとう」と言って、勢いよく入国を認めるスタンプを押してくれたのだ。おそらくこの女性は、イスラム系住民なのだろう、と私は推測した。


見つけられなかった息子・・・

《墓標の前のハイラ》

そして、迎えた25年追悼式典。ハイラさんは息子ニハドさんを見つけることができなかった。夫の墓標の隣には、ニハドさんが眠る場所が残されている。ハイラさんは墓標に手を添え、肩を落とした。「7月11日がくると、本当につらい。25年経っても1本の骨も見つからないの」。声を震わせるハイラさんの目は、悲しみを帯びている。彼女にとっての戦後は、息子を捜し続けた25年だった。

「自分の命はどうだっていい。息子を埋葬することが、私の唯一の生きがい。その日がきた時、私と息子にようやく平穏が訪れるの」。追悼式典の会場を後にする、ハイラさんの寂しそうな表情が忘れられない。今年こそは、今年こそはと、待ち続けた25年。腰をかがめて遠ざかっていく、ハイラさんの後ろ姿が、私の胸に今も焼き付いている。


戦争がもたらした傷跡

《無数の墓標》

二度の大戦を引き起こしたヨーロッパは戦後、再び戦場になることがないよう、努力を重ねてきたはずだった。だからこそ半世紀後にボスニア内戦が勃発し、耳を塞ぎたくなるようなジェノサイドが起きたことに、大きなショックを受けた。戦争を防ぐ努力がいかに難しいかを、あらためて突きつけられたのである。

《慰霊碑の前で伏せる男性》

戦後75年の歳月が流れ、戦争の記憶が薄れつつある日本にとっても他人事ではない。戦争はどの国にも起こりうる可能性があり、それを防ぐ困難さは、どの国でも共通のものであるからだ。日本は特別な存在などではないのだ。スレブレニツァの虐殺で亡くなった犠牲者の思いや、ハイラさんのような遺族の声に耳を傾け、関心をもち続け、戦争がもたらす悲劇を繰り返してはならない。その思いを、私たちは共有していかなければならない。

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西村さんプロフィール写真

ロンドン支局 西村匡史記者

報道局社会部で警視庁、横浜支局、検察庁、裁判所、司法キャップを担当。「NEWS23」、「報道特集」、「ザ・フォーカス」などで、数々のドキュメンタリー作品を手がける。事件、事故、震災、戦争などの被害者遺族の取材、命を殺めてしまった死刑囚や加害者家族の取材など、入社以来、一貫して「いのち」を追い続けている。「スレブレニツァの虐殺」もその延長線上にある。