なんで勉強するの?

よく子ども達から「勉強ってなんでやらなきゃいけないの?」と聞かれます。この質問を受けたことがない大人はたぶんいないのではないでしょうか(笑)

「勉強」というのは、主に教科学習のことを指しますね。そして、それは学校や塾という場所で教えられて記憶することを意味します。


しかし、言い方を少し変えてみましょう。


「勉強」ではなく「学習」と言えば、少し心理学っぽいでしょうか?(笑)


私は「勉強」というものが人生を豊かにする時代は終わりつつあると思っています。テストの答えを詰め込まれてそれをテストでアウトプットして、どれだけ丸がついたかで評価を受けるというこれまでの学歴社会では、点数が高いほど年収が高く、仕事も安定しているという様でした。


実際に学歴と年収はある程度比例しますし、親の学歴が子どもの学力に影響するということもデータとして現れています。しかし、すこし一歩だけでいいので、踏みとどまってみてほしいのです。



「勉強が出来て良い会社に入ったら幸せ、ですか?」



勉強ができたのに、国立大学に入ったのに、大学院まで行ったのに、精神を病んでいる人を私はたくさん見てきました。逆に、勉強が出来なくても伸び伸びと暮らし、収入は少なくても円満な家庭を築いている人も良く見かけます。

一体何が彼らを二つに分けたのでしょうか。


もちろん複雑な要因が絡み合っているため、一つの要因に絞ることができないのは承知の上です。


しかし、それでもその一つとして、私は「学習」を主体的に行うことができるかどうかが両者を分けていると思うのです。主体的な学習とは、教え込まれる教科学習と違い、自分で興味をもって自分で成長するために自分で学ぼうとする姿勢を持つことを意味します。勉強は他律的で、教え込まれるものですから、そこに主体性はありません。


だから、高学歴なのに「自分がやりたいことがわからない」若者が量産されるのです。そして、社会が敷いたレールの上を走り、「とりあえず」良い大学と企業を目指しますね。

ここに「主体的な学習」と「主体的な選択」はありません。学習とは、他者を見て他者から学び、自分のできることを自分の動機で一つずつ増やしていくことです。一方勉強とは他者から強制されて他者から教え込まれ、自分の意志とは無関係に覚えていく「作業」です。


人生というものは、自分で切り開いていくものだとはよく言われます。しかし、勉強は自分で切り開いていないのです。学習は自分で切り開いているのです。



ここに二者間の大きな違いがあります。



主体的に学習ができる人は、自分の自己実現に向けて常に動いているのです。一方で、勉強ができるだけの人は他者が敷いたレールの上を走っているのです。

人生を生きていれば、子どもでも大きな壁にぶつかることがあります。そのときに、自分の人生を切り開けるのは「他律的な勉強ができる人」と「主体的な学習ができる人」のどちらでしょうか。



私は、これからは「勉強」の時代は終わり、「学習」の時代が来るのだと思います。



他者と共に手を取り、創造的な活動を行い、円滑なコミュニケーションをとりながら遊び、相手の気持ちを推し量る力を手に入れ、自分たちがどこに向かいたいのかを自分たちで決める。

そういう学習を行うことが今後の時代を生き抜く唯一の武器になるのではないでしょうか。だから、主体的な学習ができる人は最近はどんどん独立し、自分のやりたいことを自分の動機で自分の責任で展開していきますよね。


私は「勉強」ができることを子どもに求めません。しかし、「学習」をする環境を大人が設定することを強く求めます。自分で興味を持った本を手に取って、そこに書かれていることを自分で試し、そこから気づきを得て、得た気づきを自分の日常に反映する・・・



そういう方が、「賢い」と思いませんか?



自分で決める力をあまりに蔑ろにして、偏差値という他者との比較で「唯一無二の」子ども達の発想を過小評価する現代の学歴社会、学歴差別がよけいに私たちを生きにくくしてはいませんか?


自分で発想したことを現実の場面に適応するという「遊び」の中で、自分たちで頭を使ってどうすればうまくいくか考え、五感を使い、相手の表情を見て、気遣いを学び、遊びを維持するための感情のやりとりとコントロールを身に着け、誰に教え込まれたわけでもなく「学習」して毎日賢くなっていく。その方がよっぽど豊かだと思うのです。


だから私は「勉強しなきゃいけないのはどうして?」と聞かれたら、素直に「それでしか子どもを評価できない大人がたくさんいるからだよ」と答えます。
そのあと、「君たちに必要なのは友達とたくさん遊ぶことだよ」と答えます。



そして、大自然の中にでも子ども達を連れていきます。するとどうでしょう。みんな木の枝や石を何かに見立てて、言語を使って友達とイメージを共有しながら、秘密基地を作ったり原始人ごっこと称してお互いの顔を見合って笑います。時にイメージがすれ違いけんかをします。でも、次の日には草を使って違う遊びを始めます。それ自体が「豊かな子ども時代」であることも言うまでもないでしょう。



ここでは、現代のゲームやおもちゃのように「レールを敷いた」遊びとは異なり、創造性とコミュニケーション、高い共感性、言語力、イメージ、身体能力などが豊かに鍛えられます。これが「主体的に学習する力」です。




さて、クライマックスですね。こうした数値では測れない力を「非認知能力」と呼びます。
現代では、従来評価の対象となっていたテストの点数(認知能力)ではなく、コミュニケーション能力や創造性、独自性などの非認知能力が求められています。


企業の面接でも、そうした能力を図るところが増えてきているのは皆さん、ご存じですよね。要するに私が何が言いたいかというと、「勉強(認知能力)」が物を云う時代は終わり、「学習力(非認知能力)」が物を云う時代が来るということです。

だから、子ども達には自分の責任と自分の発想で楽しく遊ぶことを知ってほしいと思うのです。そして、主体的な学習に取り組んでほしいと思うのです。


そのためにどんな風に環境を調整したらよいのか、その答えを、私は一つだけ持っています。

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