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フィルムで撮る理由と、最近の写真文化に対して思うところ

「フィルムで撮る理由」について考えた理由

最近、ある人とフィルムカメラについて話す機会があった。
あまり多くは書かないが、その方は「デジタルで加工してしまうなら、なんでフィルムで撮るの?って思う」と語っていた。
加えて、「フィルム風にしたいだけならフィルムなんか使わずに、デジカメで撮ってRAW現像すればいいのに」とも。

言いたいことは分かるし、この言葉を否定するつもりは僕にはない。むしろ大きく賛同する部分もある。
ただ、僕の場合はこれに1つ但し書きが付く。
「※フィルムの風合いが好きと言いながら」と。

フィルムの風合いが好きだと言いながら、このフィルムはこんな色が出るなんて言いつつ、実際に現像が上がるとデータ化してRAW現像ソフトに突っ込む。
そんな人に対しては、僕も同じく「デジタルで加工してしまうなら、なんでフィルムで撮るの?」と言いたくなるかもしれない。

雨の質感が好み

僕が「フィルムで撮る理由」

これは明確だ。そして、大きく2つある。
ただ、1つ目の理由の方が圧倒的に大きいだろう。

バルナックライカで撮りたいから

ほぼこれが全て。
バルナックライカの見た目に惹かれて、機能美に惹かれて、偶然の出会いがあり今手元にある。
この70年も前のカメラで写真を撮りたい。これが「フィルムで撮る理由」のほとんど全てだ。

備忘録

備忘録代わりに記しておく。
僕のバルナックライカはIIIf型で、所謂セルフタイマー付きレッドダイヤルというもの。
シリアルナンバーから調べると、1955年に9000台作られたうちの1台らしい。
来年で70歳。
ズミタールの方は、六角絞りでコーティング有りの後期型。
こちらもシリアルナンバーから調べると、1951年に5000本作られたうちの1台らしい。
ズミタールは後期型が丸絞りという情報がちらほらあるが、正しくは前期型が丸絞りで、後期型は六角絞り。

デジタル一眼に疲れたから

なんか、分かる人って多いんじゃないかと思う。
デジタル一眼の勢いの速さやスペック主義な部分に疲れてしまった。
僕はガジェットなんかも大好きな側の人間なので、レンズなんか何本でも欲しくなるし、新機種はずっと気になる。
それどころかサードパーティ製のレンズや、果ては高級な三脚やカメラバッグまで気になってしまう。

で、それって楽しいの?と聞かれると、荷物が重く大きくなるにつれて、カメラそのものを持ち出す機会が減ってしまった。
このレンズ持っていかないなら、満足出来ない。でもこのレンズは重いから持っていきたくない(持っていけない現場)。じゃあカメラ持って行くのやめよう。みたいな。

沼ってやつだと思う。結局それに疲れてしまった。

酷い失敗写真だったが、意外となんとかなった

フィルムをデジタルで楽しむ

それで良いじゃないか、と思っている。
楽しみ方は人それぞれ。

正直この世界は「自分の思う楽しみ方以外を他人がすることを認めない」みたいな人が多いと思う。
そういう人たちと、関わりを完全に断つのも難しい世界だと思う。
それなりに聞き流しながら「ま、俺は俺の楽しみ方をするけどね」って流す力っていうのも大事なんじゃないかと思う。

最近の写真文化に対して思うところ

それが今言ってたことじゃないの?と思われそうだが、これは全く別の話。
自分でNoteを初めて記事を書くようになって思った事があったので、共有と所信表明をば。

"作例"って何?

作例を辞書で調べてみた。

詩文などの、作り方の実例手本。「手紙文の—」「—を示す」
辞書で、その語の用法などを示すために作る例文

デジタル大辞林

だ、そうで。
この頃の写真文化。それこそブログでもTwitterでもインスタでもYouTubeでもそうですが、自分の撮った写真を「作例」って呼ぶ風潮、何なんですかね?

写真の撮り方を教える動画や記事の中で「こちらが作例です」なら分かる。
レンズレビューの動画や記事の中で「こちらが作例です」も分かる。

でも、普通に撮った写真に対して「作例」って何?
何の手本?

って、昨日小一時間ぐらい考え込んでしまった。
とりあえず、僕は今後、そういう「作例だという意図がある時」を除いて、作例という形で自分の写真を披露しないよう気をつけようと思う。

だって作「例」なんかじゃないんだもの。作「品」として撮っているつもりだから。

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