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長編連載小説 Huggers(8)

採用面接官の不可解な提案に、小倉は怒りを抑えきれない。


小倉1(つづき)


 帰り際、結果は今週中にご連絡しますから、と永野は丁寧に言ったが、その時点でもう諦めていたので、翌日電話がかかってきて「大変残念ですが、今回は……」と言われた時には、わざわざ連絡が来たことに驚いた。
 しかし礼を言って切ろうとすると「ちょっと待って。待ってください。まだ話は終っていません」というあわてた様子の永野の声が耳に飛び込んできた。
「え? でも、不採用なんですよね」
「それは、そうなんですが……、デレクが、ぜひあなたともう一度お話がしたいそうです」
「なんのお話でしょう?」小倉は当惑した。
「彼は実は、うちの講師の仕事のほかに、ある国際的な団体の幹部をしていて、日本での代表も兼務しています。アメリカに本拠地があるのですが、北米、中南米とヨーロッパに続いて、今回日本で活動を始めることになりました。日本での活動が軌道にのれば、東アジア全域で展開していきたいという希望を持っています」
「あの、すみません、その話、僕と何か関係があるんでしょうか」
「それを今、お話しするところです。その団体の活動はまだ実験段階なのでおおっぴらに宣伝はしていませんが、私たちはそれを人類全体に貢献する活動だと信じています。あなたに、ぜひその活動に参加してほしいんです」

 小倉は沈黙した。もったいぶった話の持っていき方が、ひどくうさんくさく感じた。アルバイトの面接というのは名目で、最初から何かの勧誘が目的だったのか。きのうの面接での失態が頭によみがえって、不快な感覚が足元からゆっくり上ってきて全身を浸す。

「つまり英語の学校はだめだけど、そちらの団体で採用してもらえるということでしょうか」
「そう考えていただいて結構です」
 小倉の頭のなかで、不信感と、きのうの誠実そうな永野の様子をまだ少しだけ好ましく思う気持ちが戦っている。
「そっちはどんな仕事なんですか」
「自宅でできるんですよ。オンラインで」
「オンラインで、何をするんですか」
「人を助けます」永野は言った。そして少し間を置いたが、小倉が何も答えないでいると、言葉をつづけた。
「ネットに関する諸費用はこちらで負担します。ほかに費用はかかりません。外に出る必要もない。電車にもバスにも、もちろん飛行機にも乗る必要もない」
「僕はカウンセラーじゃないし、人の相談になんかのれません」
「相談になんかのらなくてもいいんです。具体的な方法については研修があります」
「ああ、なるほど」
小倉は勝ち誇ったように言った。こうしたやり取りでは簡単にだまされない自信があった。何しろ、逆の立場にいたことがある。
「研修が必要なんだ。で、その研修にけっこうなお金がかかるんでしょう。あなたには素質がありますとか持ち上げておいて、研修名目で大金を出させる」
「いえ、研修は無料です。ねえ小倉さん、誰もがあなたからお金を取ったり、だましたりしようとしてるわけじゃありませんよ」
 こうした応対には慣れているのか、永野は落ち着いていた。
「ただ研修を終えても、すぐには給与はお支払いできません」
「タダ働きってわけですか。アルバイトはだめだけど、ボランティアなら使ってやると」
 自分ながら、嫌みな言い方だと思ったが、こちらの弱い立場を利用されていると思うと、我慢ができなかった。
「誤解です」永野は辛抱強く言った。「英会話学校とこの団体とは、まったく別の組織です。確かに今のところ、この活動で収益は上がってません。海外での活動もボランティアメンバーによるものです。ですがいずれ非営利団体のような形にして、ゆくゆくは専任スタッフをおき給料が支払えればという希望はもっています」
「希望、ですか。そういう何の見通しもない団体にボランティアで協力しろっていうその感覚が僕には理解できませんが。とにかく僕には今ボランティアをする暇も余裕もありません。自分が助けてほしいくらいです。僕に必要なのは仕事です。ほかをあたってください」
 捨てぜりふのつもりでそういって、通話を終えようとしたが、一瞬ためらったすきをついて、永野が言った。
「仕事さえ見つかれば、今の状況が改善するんですか?」
ふいに投げかけられた挑戦的な言葉に、小倉は頬の筋肉が震えるのを感じた。
「何が言いたいねん」
「問題が全部解決し、電車にも乗れるようになり、薬に頼らなくても眠れるようになると?」
 カッと頭に血が上った。
「大きな……」お世話だ、と言おうとしたが、怒りが勝ちすぎて声にならない。
「あなたに必要なのは、仕事じゃない。本当に必要なものを、私たちはあげられます」
「なんやそれ。何が必要って、わかって言うてんのか?」
「心の平和です」
「やっぱりそやろ。わかってきたわ。新興宗教やろ? デレク。あいつが教祖か」
「宗教じゃない、といっても信じていただけないでしょうね。信じなくてもいいです。いや、信じない方がいい。聞くだけ聞いて、自分で判断してください。必要なきっかけがあれば、望む人は誰でも、心の平和を得られるんです。まわりの状況がどうあっても揺らがない、安らかな心や幸せな感覚を持ち続けられるんです。通常、そうした状態に至るためには長年の瞑想や修行が必要だといわれていますが、そんなことをしなくても、物理的手段を使って人々をその状態に導くことができる人たちが存在するんです。私たちは彼らをハガーと呼んでいます」
「つまり、何やな、そいつらには他人を幸せにする、超能力みたいなもんが備わってる、そう言いたいんか」
「厳密に言うなら、幸福な感覚や生きる力そのものを他人に与えるなんてことは誰にもできません。そういったものは元々各人の中にあって、一時的に眠っているだけです。ハガーにできることは、眠っているその感覚や力を揺さぶり起こすことです。それで、別名をアウェイクナ――目覚めさせる者、とも呼ばれています」
「そんなん、信じて、いうほうが無理とちがうのん」
「その通り。荒唐無稽な話です。信じろというほうが無理です。だから全てのことをとても慎重に進めています。本当に信頼できる人材を探すために、こんなふうに段階を踏まざるを得ないんです」
 小倉は黙っていた。自分がなぜ電話を切らないのかわからないまま、携帯を握りしめ、耳を押し付けている。
「あなたには、彼らを、ハガーたちを支える支え手の役割を果たしてほしいんです」
「支え手?」
「彼らはその能力の故に、とても孤独で繊細な人たちです。だから常に彼らを見守る、いわばマラソンの伴走者のような存在が必要なんです。あなたにはその資質があります」
「は? 資質? なんでそんなことわかんねん?」
 通話終了ボタンを押せばいいだけだ。なぜそれができない? なぜ自分はこの得体の知れない男と訳の分からない会話を続けているのか? 意地だろうか。ただこの話の行き着く先を確かめたいだけなのだろうか。
「面接です。デレクはあなたのいる部屋に入った時、すぐにそれがわかったそうです。いえ、別に超能力じゃありません。誰にでもある感覚です。電話が鳴る少し前に、あ、鳴るなってわかることありませんか? それは現象化する前の微かなエネルギーを感じ取っているだけなんです。デレクはそういう感覚が人よりも鋭く、非常に微細なものまで感じ取れるのです。正直に言うと、面接のときに私がした質問やそれに対するあなたの答えの内容は、それほど問題ではありませんでした。彼が面接で見ていたのは、あなたという存在そのものです。デレクはこう言いました。『彼は今とても苦しんでいる。自分を信じてないから、誰も信用できない。だが彼は心から真実を求めている。また彼には人と人とをつなげる天才的な力がある。だから私たちには、彼がぜひとも必要だ』と」
 沈黙が流れた。電話の向こうで、ざわざわとしたオフィスの物音がする。 
「小倉さん。強制はしません。ただ、お願いです。決める前に、一度だけハガーに会ってほしいんです。あなた自身で経験して、確かめてください」
「確かめるって、何を?」低い声で自分が言っているのを、小倉は聞いた。
「その人に会うて、僕が救われる、ちゅうんか?」
「小倉さん、さっきも言いましたけれど、他人を救うなんてことは誰にもできません。ハガーにできることはきっかけを与えることだけです。そのきっかけをどう生かすかは、個人の問題です。確かめてほしいのは、ハガーの存在があなたにとって――見守るに値するかどうか。ただそれだけです」

 電車がゆっくりと近づいてくる。ヘッドライトが遠くで光る。ホームの明かりが際立ち、周囲は深い闇にのみこまれている。
 小倉はベンチから立ち上がった。今、この瞬間のことだけを考えよう。大丈夫。今、僕はまだちゃんと立っている。一歩踏み出す。まだ、大丈夫。また一歩。

 見守るに値するかどうか?
 あの時もし、永野があのような言い方をしなかったら、たとえば「ハガーに会って、あなたに何が起こるか確かめてほしい」というような言い方だったとしたら、自分は間違いなく断っていただろうと思う。永野は知っていたに違いない。小倉自身も気づいていなかった、心の奥底にある激しい希求、誰かを守りたいという願いを。
 そして小倉はあの男に出会った。彼を揺さぶり起こしてくれたハガーに。
 気がつくと、ホームに停車した電車の前に立っている。扉が開き、帰宅ラッシュで込み合った車内から老若男女が吐き出されてくる。

 西野さん、僕たちに何かできるんやろか。
 小倉は深呼吸をし、目をつぶって少し隙間ができた電車に乗り込む。
 ほんの少しでも世界を変えられるんやろか。もうほんのちょっとでも、美しい場所に。

 手すりにしがみつき、冷たい金属に額を押し付ける。
 それから、裕子がハグしたという見知らぬ男のことを思う。
 自分でもそうと気づかぬうちに、揺り起こされてしまった者のことを。
(つづく)

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