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短編小説 フォーマルハウト 3(全5回)

(夫の冷たい態度に悩む奈津子は、プラネタリウムで同じマンションの住人・丘野の子供を預かる。お礼にカフェに誘われた奈津子は戸惑う)



結婚して5年目、そろそろ真剣に子供が欲しい、と思った。半年ほど前のことだ。
その少し前から夫の様子がおかしくなってきたことには気づいていた。会社で部署が変わって、帰りが遅くなった。口数が減り、いつもイライラしたり、そうでないときはぼうっとしていることが多くなった。奈津子に触れることもなくなっていた。
「ごめん、今日は疲れているから」
「今そういう気分じゃない」
そんなやりとりが何度か続いた。
最初のうちは、ただ仕事で疲れているだけだと思っていた。だがそのうち、そばに行くだけで、何の気なしに手が触れそうになるだけで、夫が身を硬くするのがわかるようになり、不安になっていった。
ある日の出勤前、夫の髪が跳ねているところを直そうと何気なくのばした手を思い切り払われて、息が止まるほど驚いた。
明かにわざとではなく、反射的な行動だった。
「ごめん」
奈津子以上にショックを受けたような顔で、夫は言った。
「どうしたの?」
「ごめん」夫は言った。「でも触られたくないんだ」
「どうして?」
夫は答えなかった。
ただ悲しそうな顔で奈津子を見た。
その目を見て、本気なのだとわかった。
本気で申し訳ないと思っているのだと。
「どうして?」
声が震えた。泣き出さないようにするのがやっとだった。
「私のことそんなにイヤなの? 私、どこを直したらいいの?」
「そういうんじゃないんだ」夫は言った。
「奈津子のせいじゃない。悪いのは僕なんだ。全部、ぼくのせいなんだ。だから、ごめん」
自分の心臓が、いますぐ止まってしまえばいいのにと、そのとき奈津子は思った。

ふと横を見ると、丘野はカウンターに両肘をつき、まるで祈りでも捧げるように両手を組み合わせて目を閉じていた。
その横顔はひどく、疲弊しているように見える。
休日のカフェは混んでいて、カウンター席しか空いていなかった。
だがガラス張りの窓から外を眺められる席は勇太にはちょうどよかったようで、丘野と奈津子にはさまれてチョコンとすわり、ジュースのストローをくわえたまま目の前のポールにつながれて大人しく飼い主を待っている黒いトイプードルをじーっと見ていた。


カフェは地下にあるが、窓から見える中庭の部分が建物の上のほうまで吹き抜けになっていて、薄曇りの空の雲の切れ目から時折りさしてくる午後のゆるい日の光が、優しく心地よい空間を演出している。
しばらくして目を開いた丘野は、奈津子が自分を見ているのに気づくと組み合わせていた両手にあごをのせ、ただ外の景色を眺めていたのだというような振りをした。
「お祈りですか?」
奈津子がからかうように言うと、丘野はあいまいに笑った。
「バレましたか」
「丘野さんは、キリスト教の信者さんか何かですか?」
奈津子は用心深く言った。
マンション内で、丘野の妻が何かの新興宗教の信者ではないかという噂があった。
「いいえ、そうじゃないんです。何に、とか、誰に、というわけじゃなく、ただなんとなく祈ってました」
「何をお祈りされたんですか?」聞くべきではないような気がしたが、聞かないのも不自然な気がして、わざと気軽な調子で奈津子は言った。
丘野はアイスティーをストローで一口飲んだ。
「山路さん、笑わないって、約束してくれます?」
「ええ」
「ほんとに?」
「ほんとです」
ここ一か月くらい、ちゃんと笑ってないんです、と思わず口から出そうになった。
「山路さんの、幸せです」
「私の? 幸せ?」
「ほら、笑った」
「ごめんなさい。でもなんだか突拍子もないことをおっしゃるので」
「そうですか?」
「そうですよ」
奈津子は落ち着かない気持ちで言った。
この会話をこれ以上続けたくない。
帰ろうと思い、ひざに置いたバッグを持ち直した。
「すみません、気持ち悪いですよね。僕なんかに幸せを祈られたら」
「いえ……」
丘野は視線を奈津子から窓の外に戻した。
「でも、誓って言いますけど、変な意味じゃないです。安心してください」言い訳するように丘野は言った。
「それはわかってますけど」
口調が硬いと、自分でも感じた。
「悲しそうだったので」
「え?」
「山路さん、今すごく悲しそうな顔をしていたので」
どう反応していいかわからず、奈津子は目の前のコーヒーマグに視線を落とした。
「ご自分でどう思っていらっしゃるかわかりませんけど、山路さんはとても……その、素敵な方だと思いますよ」
「そんな、そんなことないです」
ひどく居心地悪く感じ、立ち上がるきっかけを探して椅子に浅く座り直した。
だが丘野は奈津子のこわばった表情には気づかない様子で話し続ける。
「あの臨時総会のこと、覚えてます?」
「ええ、もちろん」

丘野とは3年前、マンションの管理組合の定期総会で知り合った。
二人とも、その期の管理組合の理事に選任された、5世帯のなかに入っていたのだ。
結婚するとき購入した中古マンションの管理組合の理事は、各階部屋番号順に1年ごとの持ち回り制だった。
総会に出席できない夫から、「理事長だけは引き受けないで」と言われていたが、誰もやりたがらない理事長をくじ引きで決めることになり、くじ運の悪い奈津子は案の定、理事長に当たってしまった。
夫に何と言い訳しようかと真っ青になっている奈津子の様子を見かねたのか「じゃあ、私やりますよ」と代わってくれたのが丘野だった。


その期の管理組合は忙しかった。
大規模修繕工事を築15年を迎える翌年に控えての工事業者の選定、駐車場の空きをどうやって解消するか、管理会社の対応の遅さ、共用部の水漏れなど、対処すべき問題は常に山積みで、月一回は5人の理事が顔を合わせる理事会を開いて話し合った。
夫が嫌がったので、理事会にはいつも奈津子が出席した。
ほかの4世帯は男性が出席していたので、ビジネスライクに議事が進み、奈津子はほとんどの時間、ぼうっとそこにいて話を聞いているくらいしかできなかった。

「あの」臨時総会、と丘野が言ったのは、大規模修繕工事の業者の選定でもめて、臨時総会を招集する事態になったときのことだ。
管理会社の担当者が、自社の関係会社が有利になるように見積もり金額を操作したことが判明し、担当者のつるし上げに近い状態になった。
「あの総会は荒れましたね」奈津子は言った。
「あのとき、山路さんは僕の隣にすわっていましたよね。書記をしてくださって」
「そうでした」
「とても心強かったです」
自分たちの代わりに理事長になったがために、面倒な立場に立たされた丘野にひどく申し訳なく、せめてそれくらいはやらなければと思ったのだ。
「でも、丘野さん、すごく落ち着いていましたよね」
「そう見えました?」
「はい」
話し合いは紛糾し、怒号も飛び交った。
理事の間ですら意見が分かれた。
丸くおさめようとする丘野を詰めが甘い、弱腰だと責める住民もいた。
みなが感情的になるなかで、丘野は眉ひとつ動かさずに冷静に議事を進行し、一人一人に時間を与えて全員の意見を聞いた。
話し合ううちにだんだんみなが冷静さを取り戻し、最終的に投票で決着がついた。


「ほんとは泣きそうでした」丘野は笑った。
「えっ。そうだったんですか?」
「男ってね。いつも強がってみせてるだけで、ほんとはみんな結構ビビリで、弱虫で、泣き虫なんですよ」
調子よく韻を踏むようなその口調がおかしくて、奈津子は思わずクスッとと笑ってしまった。
「でもね、山路さんが、ただそこにいらっしゃるだけで、なんていうか、すごい安心感があったんですよ。うまく説明できないんですけど、あのとき僕、どれだけそれに助けられたか。いつかお伝えしたいって、ずっと思ってました」
「そんな。私はただ、ぼうっとすわっていただけです。どうしたらいいのかわからなかったので」ただオロオロして、時々、丘野を励ますつもりでうなずいていただけだった。
「それで十分だったんですよ。むしろ、それがよかったんです」
丘野は不思議な、心に染み入るような笑顔で奈津子を見た。
その表情からは確かに、まじりけのない純粋な感謝だけが伝わってきて、奈津子は素直に嬉しくなった。
「だから、山路さんには幸せでいてもらいたいんです」
「ちょっと、論理に飛躍がある気がしますけど」と言うと、丘野はとぼけた顔をした。
「そうですかね?」
ふと、二人の間に少しぎこちない空気が流れた。
奈津子と丘野は助けを求めるように、同時に勇太のほうを見た。
勇太はじっと動かないプードルにとうとう飽きたらしく、さっきプラネタリウムでもらったチラシで折り紙のようなことをしていた。
チラシには、「9月・10月の星空」と書いてあり、その下には星座の図が印刷されている。
「どうでした? 今日のプログラムは」
気まずさを破るように、丘野が言った。
「ああ、星がとってもきれいでした。――なんて、当たり前か。実は私、星のこと全然わからないんです」
奈津子が告白すると、丘野も笑った。
「実は、僕もです」
「あ、でも今日、ひとつだけ覚えましたよ」
「何を覚えたんですか?」
あかるい快活な目をして、丘野がたずねる。
「秋の夜空は、夏にくらべて明るい星が少ないんだそうです。秋の夜空の1等星は、みなみのうお座のフォーマルハウト、ただ一つだそうです」

(つづく)

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