短編小説 フォーマルハウト 2(全5回)
(夫とのすれ違いに悩む主婦・奈津子は、近所にできたプラネタリウムで同じマンションに住む丘野に声をかけられる)
上映時間の15分前になり、プラネタリウムドームのドアの前に並んでいた列が進み始めたとたん、丘野の携帯が鳴った。
子供の手を引き「ちょっとすみません」と列を離れようとする丘野に、思わず「勇太君と一緒に、席を取っておきますよ」と声をかける。
「ほんとですか? すみません。すぐ行きます。すみません」としきりに繰り返す丘野から勇太を引き取り、先にドームに入った。
入口から見て正面の、投影機の向こう側の席が見やすいとネットの口コミに書かれていたので、勇太の手を引いて急いで投影機の向こうに回り、なんとか正面のブロックに3人分の座席を確保した。
席にすわって勇太の顔を見ると、走ったせいか紅潮し、息をはずませている。
「ごめんね。走らせちゃって」と言うと、勇太は奈津子を見上げ、にこっと笑った。
勇太は無口な子供だった。一度だけ預かったときも、丘野が持たせてきたアニメのDVDを見せておくと、何時間も身じろぎもせず黙ってそれを見ていた。
表情の変化も乏しいので、初めて見た笑顔に胸が痛くなり、思わずぎゅっと抱きしめたいような衝動にかられた。
係員がドアのそばに立ち、投影の始まりを告げるアナウンスが場内に流れ始めた。
少し心配になってきたとき、丘野があわてた様子で走ってくるのが見えた。
「すみません、山路さん。ちょっと込み入った仕事の電話で、どうしてもすぐかけ直さなくちゃならないんです。勇太、出よう」
勇太に向かって手を差し出す。
勇太はおとなしく立ち上がろうとする。
「よかったら」考える前に、声が出ていた。
「勇太君、おばさんと一緒に見ようか?」
勇太は口をあけて、奈津子を見、それから期待をこめた表情で父親の顔を見た。
「え、でもそれは……」
「でもこの回を見逃すと、たぶん今日の分の観覧券、売り切れですよ」
それでもまだ迷っている様子の丘野に、奈津子はきっぱりと言った。
「どうぞ、いらしてください。私なら、大丈夫ですから」
投影が始まり、ドーム内が暗くなった。
勇太が怖がらないかと横を見ると、子供はぽかんと口をあけて、頭上に広がる360度の天空を魅入られたように眺めていた。
「皆様ご覧ください。これがこの建物を基点とした、本日の夜空です。今、太陽が西の空に沈んでいくところです。今日の日の入りは17時15分……」
前に立った係員のナレーションが始まり、人工とは思えない精巧な夜空に星が瞬き出す。
そのあいだを縫うように、光る物体が移動していく。
ナレーションはその物体を、有人の国際宇宙ステーションだと説明した。
「皆様は運がいいですよ」係員が言う。
「本日、17時45分から約5分間、南西の空に、本物の国際宇宙ステーションを見ることができます。お天気が良かったら、ぜひご覧になってみてください。――さて、皆様の頭上には今、本日10月7日の夜空が広がっています。今は夏から秋の星空に移り変わる季節です。宵空には、夏の夜空を代表する、『夏の大三角』と秋の夜空を代表する『秋の四辺形』の両方が見えます……」
結婚とは、無関心になることなのかもしれない、と奈津子は思う。
出会ったころの純粋でまっすぐなお互いへの関心は、親しくなるにつれ安心という名の慢心にすりかわり、体の距離が近づくほどに心は遠ざかり、核心に触れることができないまま、気がつくと互いの姿を見失っている。
夫になる人と初めてきちんと話をしたのは、当時勤めていった会社の近くの喫茶店だった。
そのときは生命保険の営業マンと、勧誘されるOLという関係だった。
会社の昼休み、制服で胸にIDカードを下げたまま、約束の時間に少し遅れて走っていった。
電話の声や話し方がとても礼儀正しくて感じがいい人だなという印象があったので、なんとなく心がはずんでいた。
階段を下りてくる奈津子と目が合うと、その人はすわっていた席からさっと立ちあがり、深々とお辞儀をした。
それから40分ばかり話した。
営業マンらしくない、少しはにかんだような笑顔が素敵な人だと思った。
資料をカバンから取り出す手が緊張からか少し震えていて、奈津子はそれをひどく好ましく、いとおしく感じたのを覚えている。
今、夫は誰の前であの笑顔を見せるのだろう?
「ありがとうございました」
ドームの出口のところに丘野は立っていて、奈津子の顔を見ると深く頭を下げた。
「ほんとに助かりました」
「いいえ、勇太君とってもいい子でした。私のほうこそ、淋しくなくてよかったです」
勇太はすっと奈津子の手を離し、父親のところへ行って、小声で何かささやいた。
「え? 何? 勇太、聞こえないよ」
「ステーション」子供は少し大きな声で言った。「ほんもの」
「ステーション? ん? なんだそれ?」
「国際宇宙ステーションのことだと思います」奈津子は言い、今夜それが見られるのだと説明した。
「勇太君、きっとそれが見たいんだと思います」
「ん? そうか。そうなのか、勇太」
勇太は父親に抱きついて、顔を隠すようにしながらうなずく。
「そうか。じゃあ、見ようなあ。勇太。パパと二人で見よう」
丘野はそう言って、それから思い切ったように奈津子の顔を見た。
「あのう、よかったら、もしおいやじゃなければなんですけど。お礼にお茶でもごちそうさせていただけませんか? この建物の地下にカフェがあるみたいなんで」
「え? いえ、それは……」思いがけない誘いに、奈津子は当惑した。
「勇太もそうしたいだろ? 山路さんのお姉さんと、アイス食べたいよな?」
丘野はそう言って、奈津子の顔を見ずに、自分に抱きついたままの勇太の髪をくしゃくしゃっと撫ぜた。
「ね、そうしましょう。勇太も喜びますから」
奈津子は時計を見た。
まだ3時だ。こんなに早く帰ったら、夫はまた機嫌を悪くするだろう。
(つづく)
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