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長編連載小説 Huggers(14)


妻の親友に問い詰められる沢渡。

         沢渡  3

「ハグですか? そうですねえ、やっぱり、家族や親戚とか、せいぜい親しい友達同士って感じでしょうかね。誰でもっていうことはないです」
 職場で向かいの机にすわっている後輩の桐尾が言った。小学校5年まで父親の仕事の関係でニューヨークの郊外で暮らし、大学2年のときにも1年間、交換留学生としてサンフランシスコにいたという。
「もちろん、人によりますけど」
「どういうときにするの?」
 珍しく有休をとっている女性事務員の代わりに接客カウンターにすわっていた、社長夫人の長谷川加乃が興味深げに口をはさむ。
「どういうとき、か。うーん、まあ、コミュニケーションの手段の一つって感じですかね」
桐尾は少し眉間にしわを寄せ、微妙に視線を空中に浮かせながら言った。「言葉ではうまく伝えられない気持ちを体で表す、みたいな。ほら、友達に悲しいことがあったときなんか、なんて声をかけたらいいかわからないときってあるじゃないですか? そういうとき彼らは言葉のかわりにハグなんですよ」
「ふーん、で、桐尾くんも外国人のお友達に会ったら、ハグするの?」
 少しからかうような調子で、加乃が言う。
「いやあー、やっぱり僕は日本人ですから。向こうから来ればしますけど、こっちからはあまり行かないかな」 
 桐尾はそう言ってから、邪気のない笑顔で沢渡に視線を戻す。
「でも沢渡さん、なんでそんなこと聞くんですか?」
「いや、この前の日曜日にさ、代々木公園で見かけたんだよね。フリーハグ・キャンペーンてやつ。それで欧米とかでは知らない人同士でもするもんなのかな、とちょっと思っただけ」

 自分からふった話題にもかかわらず、心なしか得意気に見える桐尾の様子が気に障り、話を終らせるつもりで机の上のファイルに目を落とした。だが思いがけず加乃のほうが「あ、それ私知ってます」と、回転椅子をまわして二人のほうに向いた。
「お笑いタレントが、『100人とフリーハグ』っていう企画をやってたの、DVDで見ましたよ。ボードを持って立ってて、通りすがりの人とハグする、あれですよね?」
「ええ」沢渡は言った。
「もともとはアメリカで始まった運動らしいです。何年か前に、ユーチューブの動画が発端になって世界中に広まったみたいです」
「そうだったんですか。それって、普通の人がやってるんですか? 何か特別な団体じゃなくて」
「少なくともぼくにはそう見えました」
 普通の人、なのだろうか。清水や、記録係。そして、詩帆も。
「沢渡さんは、どうしたんですか?」
 桐尾がたずねた。
「どうしたって?」
「ハグですよ。行き合わせたんでしょ? してもらったんですか」
「いや、僕はやめておいた」
 苦笑いしながら答えた。
「奥さんは?」
「え? ああ」ふいをつかれて、一瞬思考が停止した。
「一緒じゃなかった」
「なあんだ。日曜に代々木公園っていうから、てっきり奥さんと散歩かと。沢渡さんはめちゃくちゃ愛妻家だって聞いてますから」
 何も知らない桐尾がにやにやしながら言い、沢渡は返事につまった。詩帆がいなくなったことは、社長と加乃しか知らない。やっとのことで、ぎくしゃくと「そんなことはないよ」と言ったとき、加乃が立ち上がって、ぐっと伸びをしながら言った。
「あ、もう時間だ。お迎えいかなくちゃ」
 2歳の息子を保育園に迎えに行く時間らしい。加乃は自動ドアのところまで行ってから振り返り、表情を変えずに言った。
「沢渡さん、今、忙しいですか?」
「あ、いえ」
「じゃあ、ちょっと話せますか? 桐尾くん、ちょっと一人で店番いい?」
「いいっすよ」
 桐尾は陽気に片手をあげて、微笑んだ。


 駅前の商店街を、駅とは逆方向の住宅街に向かって足早に歩いていく長谷川加乃の、すらりと背の高い後ろ姿をよく訳も分からないまま追った。

 社長にとっては2番目の妻で、3年前結婚したときにはまだ20代だった。九州の高校を卒業して一人で上京後、アルバイトをしながら福祉系の短大を出て、総合病院でリハビリの仕事をしていたところ、脳卒中で入院していた社長の母親、つまり現在の姑の担当になった。その仕事ぶりと人柄を社長が見初めたという話だった。

 加乃は何か考え事をするように口を引き結び、大またでずんずんと歩いていく。ひょっとして沢渡の存在を忘れてしまったのではないかと思ったころ、二階建ての保育園の園舎が見えてきて、加乃はその手前にある小さな児童公園に入っていった。二組ほどの母子が遊んでいる砂場の手前で、加乃は振り返って沢渡のほうを向いた。

「ごめんなさい、強引に連れ出して。一度、直接話をお聞きしたかったんです。主人を通してだと、どうもまどろっこしくて」
 そして思い切ったよう言った。
「詩帆さんからは、その後何か連絡があったんですか?」
「いいえ」
「ご実家にも?」
「はい」
「勤務先の保育園には?」
「いなくなる半月前に、やめていました」
 加乃と、長谷川のいないところで二人きりで話すのは初めてだったし、彼女の矢継ぎ早な質問の仕方にはどこか詰問するような調子があり、沢渡は居心地の悪さを感じた。
「退職の相談をしたのはそのさらに二ヶ月前だそうです。少なくともそのときにはたぶん、決心していたと思います」
「あの、沢渡さんには、ないんでしょうか。詩帆さんが家出するような。その・・・・・・心当たりというか」
 そこまで言ってから、加乃は急にはりつめた気持ちが切れたように、口元をふるわせた。沢渡は彼女が泣き出すのではないかと心配になったが、加乃はぎゅっとくちびるをかんだだけだった。
「すみません、沢渡さん。私なんかには関係ないってことは、よくわかってます。ただ、私にとって詩帆さんは特別な人なんです。私が結婚してここに引っ越してきて、誰も知り合いがいなくて不安だったとき、初めてできた友だちが、詩帆さんでした。いつも優しくて、親切にしてくれた。病院も紹介してくれたし、何でも相談にのってくれた。私にとって、すごく大切な人なんです」

 加乃の言葉に嘘はないと思った。とつぜん小学生の二人の子供と病気の姑をかかえることになった加乃に、長谷川に頼まれて妻を紹介したのは沢渡だった。妻がよく相談にのってやっていたのも知っている。しかし詩帆がどの程度まで自分たち夫婦のことを加乃に話していたのかはわからず、沢渡は用心深く言葉を選んだ。

「心当たりというのが、不倫とか、お金の問題とか、家族との不和とか、そういうことを指しているとしたら、それはありません。ケンカもしていなかったし、よく話もしていた。自分でいうのもおかしいけど、人並みに仲のいい夫婦だったと思います。何をするのも二人で一緒、というようなことはなかったけど、結婚して十年にもなればふつうのことじゃないでしょうか」
 少しためらってから、後を続ける。
「ご存知と思いますが、僕たちには子供ができなくて、詩帆は六年近く不妊治療をしていました。でもそれもやっと気持ちに整理がついて、一年前にやめました。詩帆はすごくすっきりした顔をしていて、やっと二人でこれから、人生を楽しめると思っていたとこだったんです。少なくとも僕は、そう思っていました。だから」
 前触れもなく感情がこみ上げてきて、あわてて言葉を切った。自分の感情をコントロールすることは得意なほうだと思っていた。妻がいなくなったことに対しても、冷静に対処してきたつもりだった。だが奇妙なことに、いなくなった当初よりも最近になってからのほうが、急な感情の起伏に襲われることが多い。
「では本当にわからないんですね」
 そう言った加乃の顔に奇妙な表情が浮かんでいることに沢渡は気づき、はっとした。
「――どういう意味ですか?」

(つづく)

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