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短編小説 フォーマルハウト 1 (全5回)

(結婚して5年。二人で一緒にいるのに、どうしてこんなに淋しいのだろう)


10月の空は、薄い雲におおわれている。
ソファに横になった夫は、窓の遠くを見ている。
夫の体はそこにあるが、心はどこか別の場所をさまよっている。
ひそやかな淋しさが、少しずつ奈津子を浸蝕していく。
ささやかな小川が長い年月をかけて地形を変えてしまうように、そのかすかな淋しさがいつかすっかり自分を作り変えてしまうのかもしれないと、奈津子は思う。


「山路さん、こんにちは」
名前をよばれて、奈津子は振り返った。
すぐ後ろに立っていた、奈津子と同じ30代半ばの男の顔はよく知っているはずなのだが、いつもと違うシチュエーションなので、一瞬名前を度忘れした。

本人ではなく、手をつないでいる子供のほうを見てやっと思い出す。
「ああ、丘野さん。勇太君、こんにちは」
丘野にというよりは、丘野が手を引いている小さな男の子のほうに向けて言った。
子供は恥ずかしそうに顔をそむけ、父親の手をひっぱって体をくねくねさせる。
「勇太、こんにちは、だろ。こんなところでお会いするなんて、奇遇ですね」
くったくない表情で笑う相手に機械的に微笑み返す。

場所を移転して新築された市民センターの、12階にあるプラネタリウムだった。
日曜日とあってロビーは家族連れや若いカップルでにぎわっている。
11時の開館をめざして家を出てきたのに、着くともう建物の入り口に行列ができていて、最初の回の観覧券は買えなかった。
2回目の券を買って、ひとりで軽い食事をとり、ロビーで次の上映を待っているところだった。

丘野は、同じ分譲マンションに住んでいるご近所さんだ。
奈津子は6階、丘野は4階の住人。
50世帯を超えるマンションだから、子供同士の幼稚園や学校のつきあいでもなければ、ほとんど名前もわからない。

だが丘野とは、数年前にマンションの管理組合の理事を1年間一緒につとめたので、エレベーターで会うと、挨拶のほかにもう一言、二言、言葉を交わす仲だった。
その縁で、去年だったか1度だけ勇太を預かったこともある。
奥さんのほうは見かけた事がない。病弱であまり外出せず、マンション内に知り合いもいないという話だった。


「今日は私が子守番です」
無意識に勇太の母親を探していた奈津子の視線に気づいたのか、丘野が言って微笑んだ。
丘野家の一人息子は確か4歳くらいだ。
「そうか。パパと一緒でうれしいね~」
勇太のほうに少しかがみこんで笑いかけた。
前に預かったときからだいぶ経っているから、もしかして奈津子のことはあまり覚えていないかもしれない。
ちらっと上目づかいで奈津子を見て、また目をそらし、微かにうなずく横顔が可愛い。
奈津子夫婦には子供がいない。


「山路さんは、今日はおひとりですか?」
相手は何気なく尋ねたつもりだろうが、休日に主婦がひとりで近所のプラネタリウムに来るという状況をわれながら不自然に感じて、奈津子はあいまいに「はい」とうなずいて目を伏せた。

いつからか、休日にはひとりで出かけるようになった。
奈津子とふたりで家にいると、夫はずっとピリピリしている。
平日の夜は息をひそめるように夫の不機嫌とつきあうことが、今の奈津子の日常になっている。
ほんの小さなことで夫はいらだち、声を荒げ、そして自分を恥じて謝る。
その繰り返しだ。
怒鳴られたり、皮肉な言い方をされることより、そのあとで謝る夫の顔を見るのがつらい。


だから休日は自分から外に出る。
夫がひとりでいられるように。
心を乱されず、穏やかに過ごせるように。
これ以上、奈津子に謝らなくてすむように。

(つづく)


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