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長編連載小説 Huggers(64)

裕子は一番会いたかった人に連絡をとる。


裕子 10(つづき)


永野に教えられた電話番号にかけると、3回ほど鳴って、男の声がした。
「小倉です」ずっと聞きたかった声だった。
「西野です」と言うと、相手は黙ってしまった。裕子は急いで言った。
「待って、切らないで。小倉さん、あの、今私、大阪に来てるんです。会えませんか? 電車乗れないなら、最寄駅まで行きますから。お願いですから一度だけ、会ってもらえませんか?」

 教えられた電車に乗り、約束の夜6時に、阪神電鉄の尼崎駅の改札で待ち合わせをした。
 改札に現れた小倉は、Tシャツの上に綿のシャツ、ジーンズというカジュアルな服装のせいか、それともひどく緊張した表情のせいか、画面で見ていた落ち着いた印象とはかけ離れた、初々しい感じの青年だった。
「こんにちは、西野です」
 と言うと、恥ずかしそうに頭を下げ、「初めまして、小倉です」と言った。その初めましてがおかしくて、裕子はくすくす笑ってしまった。
「なんか、顔についてますか」と困ったようにいうその顔がおかしくて、また笑う。
「ううん、ごめんね。だって初めましてなんて」
 ずっと敬語だったのに、実物に会ってみるとひどく親しみを感じ、自然にため口になった。
「そうかて、ホンマに会うたのは、初めてやから」
相手は不満そうに言った。
「そうよね、初めてだもんね。初めましてだよね」
 裕子は言って、改めて小倉の顔をじっと見つめた。小倉はどぎまぎして視線を逸らす。
「そんなにじっと見んといてください」
「ううん。ただ――ほんとにいたんだな、と思って」
「ホンマやね。リアリティ、あらへんしね」
 小倉はやっと笑顔になった。
「でもよかった。話しやすくて。もっと、堅苦しい感じの人かと思ってた」
「俺が?――ただの、ふつうの関西のあんちゃんですよ」
「俺とかいうんだ」
「ふだんは俺って言いますね」
「私は?」裕子はおどけた顔をした。
 今日は一番気に入っている深い緑のワンピースを着てきた。
 肩まで伸びた髪は下し、耳元で小さく揺れるシルバーのピアスをつけ、職業上伸ばすことはできないのでせめてもと思いローズカラーのマニキュアをして精一杯おしゃれをしてきたつもりだったが、それでも長年悩まされてきた自分の容姿へのコンプレックスは拭い去ることはできなかった。
「モニターで見るより、ずっと老けてるでしょ。おばさんで、がっかりした?」
 小倉は数秒間、裕子の顔を見つめ、それから目を逸らして怒ったように言った。
「西野さんは――西野さんは本物の方が、ずっと、きれいやと思います」
 頬に血が上った。急いできょろきょろとあたりを見回した。
「ねえ、夕ご飯まだでしょ? 何か食べようよ。お腹すいちゃった」
 
 駅前は近年再開発されたということで、大きなビルが立ち並んでいた。その一つの最上階にあるレストラン街のお好み焼き屋に入った。
「すいません、あんまり外食せえへんから、気の利いた店、知らへんのです」小倉が申し訳なさそうに言った。
「そんなのいいのよ、お好み焼き、食べたかったの」
「そうですかぁ」 
 店の女の子が具材を運んできてどんと置いて行くと、裕子はがっかりした顔をした。
「なんだあ、焼いてくれないの」
「そうですねぇ。こっちではたいてい焼いてくれはるけど、ここはちゃいますね。俺焼きますわ」
 言いながら小倉は二人分の生地を鉄板にのせ、手際よく広げていく。
「小倉さんのおうちは、お好み焼き、家で焼いたりした?」
「小さい時分には家でも、時々焼いてましたね。母親が失踪するまでは。妹と二人で、よく肉を取り合いしてましたわ」
「――妹さん、いたんだ」
「ええ。俺が7歳のとき、亡くなりましたけどね」
 そこで話は途切れ、片面が焼けるのを待つ間、二人とも目を合わせなかった。
「あの……すんませんでした」
 鉄板の上から目をそらさず、小倉が言った。
「放り出してしもて。西野さんも、ほかのみんなも。ご迷惑をおかけしてしもて」
「ううん」裕子も目を上げなかった。
「もう、いいよ。私こそごめんね。気づかなくて――小倉さんの気持ち。無神経なことばかりして」
「いえ」小倉は短く言って、話題を変えた。「あの、セッションのほうは、順調ですか? 俺の代わりのメインは決まらはったんですか?」
 裕子は絶句した。
「え? 俺何か変なことゆうてますか?」
 裕子の表情に気付いた小倉が不安そうに言った。
「知らないの?」
「何をです?」
「何にも?」
「だから、何をですか?」 
 しばらく穴のあくほど小倉の顔を見ていた裕子が、ふいに笑い出した。
「え? え? どなえしはったんですか?」
 戸惑う小倉を前に、笑って笑って、笑い続けた。店のほかのお客が振り向くほど、椅子から転げ落ちそうになるほど、裕子は笑った。

 緊張して体を硬くしている裕子を気遣うように、バスルームから出てきた小倉はそっと掛布団をめくり、ベッドに入ってきた。
 裕子がネット予約した、駅の近くのビジネスホテルの一室だった。
「ほんまに、ええんですか?」もう四回か五回繰り返されたせりふに、無言のままうなずき、目を閉じる。
 小倉の指先が優しくあごに触れた。目を開くと、小倉が裕子の顔を上からのぞきこんでいる。
 あわててまた目を閉じると、小倉が言った。
「目、開けといてください」
「やだ」
「見せといて、顔を、ちゃんと」
「なんで?」
「いつもモニター越しやったから、ちゃんと近くで見てみたい」
 仕方なく目を開くと、小倉の少しうるんだ目の中で、生命そのもののような、みずみずしい炎が燃えていた。
「やっぱり、きれいや」
 息がつまり、何も言えなくなった。見つめられる恥ずかしさに耐え切れなくなり、そっと右手をのばして小倉の目を覆うと、小倉は、素直に目を閉じて、すとん、と裕子の上に落ちてきた。直に触れ合った肌の温かさ、人の身体の重みが限りなくいとおしく感じた。
 裕子は、あごの少し下にある、まだ少し湿ったままの彼の柔らかい髪に何度かそっと指を滑らせた。小倉は微かに身を震わせ、やっと聞き取れるくらいの小さな声で囁いた。 
「生きとってよかったなぁ」 
 なぜそんなことを言うの、と聞こうとしたが、どこからか、これまでの人生で経験したことのないような何ともいえない優しい、いい匂いがしてきて、頭がくらくらした。
 体中の力が抜けていく。
 どうして人には、体があるのだろうか?
 ふと浮かんだ疑問は、首筋に小倉の熱い吐息を感じたとたん、意識の彼方に遠のいていった。(つづく)


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