空は高かった/汐月しゅうさんにまつわるいくつか

汐月しゅうさんのファンになったことは、たぶん、一つの転機だった。


汐月しゅうさんのお名前は、美少女戦士セーラームーンのミュージカル経由で知った。わたしはセーラームーン世代であり、大学生の頃からは海王みちるさんの信奉者である。セーラームーン25周年の諸企画がターゲットとしていた中の一人だろう。

ただ、わたしにはわたしの愛し方があり、タイミングがある。舞台がそのとき、その場所だけのものだとは承知しているが、そもそもセーラームーンという作品に追いつけたことなどない(当時幼稚園児だったので、ストーリーは何も理解していなかった)のだから、どんな媒体で展開があっても焦る必要はない、いつか、そのときがきたら出会えるという確信が、私にはあった。seredenpity というやつだ。

そうしてそのときはきた。わたしは不意に思い立って、2015年のミュージカルの千秋楽を配信でみた。


お芝居全体のことはさておいて、わたしはウラヌス役の汐月しゅうさんに惹かれた。
何が好きといって、その回る姿である。大きな肩がなめらかに後ろに滑ったかと思うと、まばたきよりも早く翻って、もう静止している。びっくりしてしまった。

しかしあいにくと、そのタイミングで手に入る、汐月しゅうさんの出演作品のチケットというものはなかった(星の王子さまみたかった…)。
出演されたYouTubeだとか、note だとかをみるほかない。わたしは見られる範囲のものを(まだ全部ではないけれども)見た。そして、わたしの弱っていた精神はめきめき回復してしまった。

ぼんやり座り込んでばかりいた人間が、本棚を整理し、髪をいたわり、マスカラを塗るようになり、ネイルさえできるようになった(自己管理をガチガチにやりたいタイプにとって、ネイルというのは一つの指標だと思う)。
なぜ自分が汐月さんの動画を見ているだけでここまで元気になってしまったのか。少しずつ言語化できるようになってきたので、書く。


とはいえ、わたしは基本的に人の体のことをあれこれいうのが、仮に褒めているのだとしても無礼で嫌だ(ブスとか言うのは論外)。
これから書くことにも少し戸惑ってしまうのだけれども、汐月さんは舞台に立たれる方だから、誰かに見せるときの身のこなし、表情の作り方は汐月さんご自身の素のそれではなく、汐月さんが表現として、選び取られた体の使い方だろう。

だからよい、ということにして言うけれども、いや言ったのだけれども…結局どう形容してもしっくりこない。今確かなのは、汐月さんの立ち姿とくるくる回るときの姿をずっと見ていたい、それだけだ。

汐月さんが踊っているとき、そのときの物語が何であろうと、あるいは物語がわからなくても(たとえば汐月さんはゲームのモーションアクターをされていて、その撮影動画が公開されているので見た)、
見ているだけで、わたしは「目から栄養を摂取してしまった…」という気持ちになる。

あともう一つ、とても魅力的なのは、笑顔。目で笑い、眉で笑い、頬で笑い、口元で笑う。汐月さんにはいろんな笑い方があって、汐月さんの表情がうつろう過程をみているのはとても楽しい。
(なお、汐月さんが笑ってるときの印象も一生懸命言葉にしようとしたけど、「妖精さんがお顔の上を走りまわってるみたい」というのが限界だった。)
わたしは初めて、笑顔というのがどんな力を持っているものなのか知った。
高校生の頃、なぜか現代社会の授業で表情筋を鍛えるエクササイズとかやっていたのだけれども、もっとまじめにやっておけばよかった。表情筋がこれほど大事な筋肉だったなんて知らなかった。

わたしは表情筋だけでなく全身筋肉が足りない。骨格がガタガタなので全然まっすぐ立てない。電車に乗ってもふらついてばかりで、日々恥ずかしく申し訳ない思いをしている。
ようやく最近自分の体を受け入れる気持ちになれてきたところなのだが、そんなときに見た汐月さんの身のこなしは、希望でしかなかった。


もちろん、わたしは汐月さんにはなれないし、なりたいとも思わない。御本人からしたら、何でも真似されたらちょっと気持ち悪いんじゃないか。もとより汐月さんのようになることが目標なのではない。

わたしは、汐月さんを知ったことで、「人間の体はこれほどまでに魅力的になれるものなんだ」と思えたことがありがたかった。
たとえばアリストテレスに二次関数が解けなかったら、たぶんわたしは数を数えることさえできないだろう。天井が低ければ、その中にいるものはおのずとさらに低くなる。
汐月さんには、今までのわたしの低すぎた天井を蹴りとばしてもらった。広い空を見せてもらった。わたしに空を飛ぶことはできないが、これほど空が広いならわたしがつっかえる可能性は万に一つもないので、いくらでも、好きなだけ背伸びできる。


もう二つほど、わたしが受けたありがたい影響を述べておこう。

わたしはもともと文学畑の人間なのだが、恥ずかしいことに、「身体性」といわれる頻出のタームを、あまり理解していなかった。自分の身体から全力ダッシュで逃げていた人間だったから。今、汐月さんを知ったことで初めて、わたしは「身体性」というタームに近づけた気がしている(世の中からは周回遅れだが…)。
わたしはかつては「快・不快」を芸術に接する際の尺度として持っていたが、近頃はさらにすすめて「体にいい・悪い」という尺度に移行していた。(例えばソフィ・カルの展示は「つらくてぐったりするけれど体にいい」。ネットでする買い物はだいたい「楽しいけど体に悪い」。『チキタ★GUGU』は「楽しくて楽で体にいい」。) 。
ちょうどそんなときに汐月さんと出会った。これから、さらにこの「体にいい」というものの感じ方を磨いていけるような気がしている。きっとこれが「身体性」というタームにつながっていくのではないかという気がする。


さらにわたしは、汐月しゅうさんがなさっているというので、ふらふらつられてnoteを再開した。そうしたら文章を書くのが楽しくて、いっそう元気に料理などしてしまう始末だ。
近々、すっかり色落ちしてプリンを通り越していた髪を、セルフでアッシュのグラデーションに染めようと思ってわくわくしていたりしている(汐月さんのブルー、セルフと聞いてびっくりした。それで、わたしもできるのではないかと思って…)。実生活でも助かるところばかりだ。


一方、そうやって汐月しゅうさんのことを見ていると、わたしは覗き見をしているような気持ちになった。別に非公式のものを見ていたわけではないのだけれども。
みだりに近づいて、何かわかったような気になっていいような人ではない。甘えていい相手ではない。汐月さんのたたずまいはとてもやわらかいのに(妖精さん走ってるのに)、同時にちょっと背筋が伸びるような厳しさがあった。わたしはこの厳しさにも、とても力をもらったような気がしている。 汐月さんの厳しさの中には、人と人の距離感の最も心地よいそれがあるような気がした。

ありがたいことづくめなのだが、汐月さんのことを過剰にあがめたてまつったり感謝することは、わたしはしない。汐月さんのすばらしさは、わたしが回復したからだなんていう功利的な理由ではなくて、ご本人の表現のすばらしさを理由に述べられなくてはならないからだ。
たしかにわたしは汐月さんのおかげで回復したけれども、それはただわたしが芸術というものをはちゃめちゃに好きなので、結局つられて生活まで向上してしまうだけである。役に立つ立たないなんて尺度を芸術に持ち込めるのは、芸術を楽しむことをまだ知らない人の特権だろう(芸術って大上段に構えた言い方でちょっと躊躇してしまうけれど、わたしは漫画も文学に含めるタイプです)。


今は残念ながら、汐月さんの舞台をみる機会を得られていない。
現時点では結局、汐月さんについて何か言えるだけの準備は、今のわたしには何もないことになる。だからここで書いてきたことも、「汐月しゅうさんのこと」ではなく、「汐月しゅうさんに出会ったわたしのこと」なのだ。公開してよいものか迷ったが、本当にこの経験を時間の流れの中に手放してしまいたくなくて、書いておきたかった。

もしかしたらもっとすごいダンサーの人、もっとすごい役者さんだっているのかもしれない。これから先、そういう人に出会うかもしれない。
それでも、汐月しゅうさんに出会えた経験は、ずっとわたしにとって宝物であり続けるだろう。

これだけ書いたのに、十全に言語化できたかどうか、まだおぼつかない(未知の経験すぎて)。あとは、汐月さんの舞台をみることができたら、またもう少し考えることにして、しばらく寝かせておく。

わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?