自分が存在していて、何かをするということ、そこに何の疑問も持たないでいられる人になりたかった

自分に名前があることが、わたしは恥ずかしい。
名前というのは、自分が客観的に見てもこの地球上に存在しているということの明らかなしるしである。
わたしは自分が存在していることが恥ずかしい。名前があるということは、その恥ずかしさを突きつけられることだ。

乗り越えつつあると思っていたけれども、そして乗り越える助けとして何暗という名前を作ったのだけれども、
でもこうやって時々顔を出す。

自分に名前があるのがいやなんだ、だから自分の名前をつけて論文を書くのがつらいんだ、この話を以前に畏友にしたことがある。
とてつもなく賢い彼女だが、わたしの話し下手もあって、どうもピンときていなさそうだった。「生きづらそうだとは思っている」と言っていた。
当時のわたしの目には、彼女こそすごくいろいろなことを考えていて、生きづらそうに見えて、わたしは楽観的なばかだと思っていたから、驚いた。話が通じなかった寂しさもあった。
彼女の言葉は、ゆっくりわたしに染み渡り続けている。本当に、彼女が正しかった。

自分の名前を置いて文章を書くなんて仕事を選べる力は、わたしにはなかったのに、道を誤ってしまった。
わたしは存在したくなかった。
本の中でなら、わたしはわたしである必要性を一切失うことができていたのに、みずから、そこにわたしを持ち込まざるをえない道を選んでしまった。


わたしは自分が何をするときも、疑問を持ってしまう。
本を買うとき、「こんな素晴らしい本をわたしが持っていてよいのだろうか。わたしさえいなければ、もっとよい読者のところへ行けたのではないか?」

本を読むとき、「この本は本当にすばらしい。でもだからといって、そのすばらしさをこんなわたしに体験させてやる理由がどこにあるのか?わたしがいつ、こんなしあわせな思いをしてもよいと許されたのか?」
美術館に行くときもそうだ。大好きなのだけど、力を振り絞らないともう行けない。一事が万事そう。

人嫌いなほうではない。誰のことも好きで、立派だと思っている。
でも、本当は誰に会うのも怖い。
特に目上の人にお会いするとき、
当たり前のように「わたしが視界に入るのは申し訳ないから隠れていよう」
「わたしを知ってもらうのは申し訳ないから自己紹介はしないようにしよう」
と思ってしまう。

それでいけないのはもちろんわかっている。でも、例えば不意に誰かにお会いする機会ができたときに出る、とっさの判断がそうなのだ。

子供がボールを追いかけて車道に出そうだ、そんなときのとっさの判断として手を伸ばす。そのくらいのスピードででてくる考えだ。

そんなことを考えていたらいけないのはわかっている。幼稚で恥ずかしい。
だからいつも、恥ずかしさ、申し訳なさ、罪悪感をなんとかこらえて、一生懸命文章を書いている。人にも会う。
でも、つらいものはつらい。

もしかして、ほかの人たちは、そんなことを考えずに文章を書けるのかもしれない。人に挨拶できるのかもしれない。自分が本を読んでもいいのか、そんな自問自答を繰り返さなくても、本を読んでもいいのかもしれない。

そうなら、うらやましいし、そんなところで心身消耗しているわたしが、そんな人たちと一緒にやっていけるはずがないと思う。

貯金がないわけじゃない。周りの方には本当によくしていただいているし、環境にも恵まれている。
わたしの心一つだとわかっているのに、どうも頑張れそうにない。

死にたいと思っていたことはあったが、今死ぬことには何の希望もない。だいたい、死ぬくらいなら、あの頃の自分を死なせてやりたかった、助けてやりたかった、そう思うとやりきれなくて、とても死ねない。

八方ふさがりで、自分だけがいる。

ほんとうはカウンセリングとか受けるべきなのだろうな。
それなのに嫌がっている時点で黒なのだろうな。

とりあえず、わたしは早いとこ夢を諦めようと思うけれども、でも、たぶんもう遅すぎた。もうどこへも行けない。

#日記 #エッセイ #随想

わたしがあなたのお金をまだ見たことのない場所につれていきます。試してみますか?