見出し画像

樋口聖典という人

なんとなく14年来の友人であり兄貴分みたいな感じの立ち位置の樋口聖典さんの事を書こうと思う。

基本的に推敲や文章を書いたりするという文章体は得意ではないので思った形でなんとなく時系列も色々と崩しながらではあるが思い出した事と色々と書いていけたらなと。

出版社に出すか出さないかは別として、この思い出話を、多くの人に見てもらえるならば、それも良い話かなあと。
今現在、僕は精神疾患や軽度の発達障害やら糖尿病やらをこさえてまた社会復帰するためにA型作業所に行くという段階ではあるけれども。

それはそれで長年患ってきた生きにくさや人との関わり方の難しさの結果なのだと思う。
諦めたら楽ではあるが、人間として生きている以上何か実りある終わりにするために生きていくのが大事なんだろう。

あらゆる見極めや人との触れ合う中ですれ違ったり生存を危ぶまれたり、利用されたり、利用してしまったり、悪意なく良くない事をしたり、されたり、勝手な言い分で追い詰められたり、自殺未遂したりしたけど、変わらずこの人は関わってくれているという事実に常に感謝している。

樋口聖典という人は紛れもなく愛の人であり、人を想う事につけての天才であると僕は考えている。

人の気持ちや感情を感じるのが苦手な僕にとって人を知るというのは非常に困難なものであるのだが、それでも根気よく樋口聖典さん、僕は樋口兄ちゃんと呼んでいるのではあるが根気よく対話をしてくれたのは非常にありがたかった。

樋口兄ちゃんの取り巻く人々や関係ある人も魅力的で語りたい人は沢山いるのだけど、今回は基本的に樋口兄ちゃんをクローズアップして語ろうと思う。

勿論想い出話というわけだし、友人としての立ち位置で語るわけだから周りの見識や見方とはまた違った形にもなるかもしれないが、それはそれで僕個人の感じ方や伝え方によるものなのでそれはそれで大切なので見てほしいなあと思う。

人は一人では生きてけないし、その意味を知っているからこそこの人は生きているんだろうなあと思うのだ。

彼の業績はいいかねPaletteやコテンラジオ等と個人名で検索すれば出てくると思うので、そちらの方で検索していただければと思います。

樋口兄ちゃんの行った事業や進行形の仕事はきっと人の人生をよりよく豊かにするもので、それは紛れもなく幸せを一緒に創り出すもの。

それは間違いのないものだと思うので、SNSやあらゆる情報を見て頂ければわかると思う。
樋口兄ちゃんも含めて僕個人の周りにはつながった人達で色々な世界を動かす人がいる。
そういう人達に出会えたのは幸運であり、何度も躓いて生き直そうとする原動力となっている。

人は人と関わり活力を得て見出すものもあるし、ネガティブばかりが全てでもないから、感じた事を丁寧に考えて生きていくというのを教えてもらった気がする。

樋口兄ちゃんとの14年は非常に濃密であり、それだけ意識が高くなるものだなあと認識している。

色々失敗しながらも生きてきて、気づいたら予想もしない病気にもなり、色々とどう生きていくかというのも色々と悩むけども、僕にも誰かにも幸福になる事は出来るだろうし、生きている人生の中で色んな失敗を経て別れてしまった関係もあるだろうが、それは感謝して次に進めばいいだろうし、誰しもが濃密な人生をより豊かに生きていけばいい。

豊かという感覚も満たされないという感覚も人それぞれ違うし、相容れない人も沢山いるわけだから、そういうのも考えながら付き合えればいいよね。

人は簡単に脆くきっかけさえあれば死んでしまうものなので、言葉や行動にも大人になるにつれて考えていかないと難しいのかなあとも思うし。

過去がどうであれ、簡単に言えば面倒だったり楽しかったり色々あった。
今更過去の自分にとっての嫌な事を回想するのは無粋だし、相手側からしたら僕が嫌な事をしてしまった事もあるだろうし、それぞれの昨日を思い返すよりも今日をどれだけ生きて明日を見るだけの世界の方がずっといい。

世の中簡単に言葉で人を殺せたり、誤解や行動によって合致しないことがあり、仲違いしたり、片方の言い分で多くの人が自分とは真逆な意見になり離れてしまおうとも、人生は続いていくし、思い込んで冷静であれば判断しないようなこと普段しないようなことをしたとして正気に戻り反省すれば次はどうすればいいかなんて結局は自分の戒めとして考えればいいだけで。

多くの別れと不適応な事ばかりで疲れてしまったりもしたが、それでも僕は生きているので、そう考えたらあながち樋口兄ちゃんとの出会いというのも僕にとって人生豊かにするきっかけであったなあと思う。

なんだかんだ距離や時間があいても話せる人って人は貴重だし、なんだかんだ、人を知りたいから色んな人と関わってみたけど合わない人の方が多かったし、誰かのせいにするわけでないのに誰かのせいでとか僕のせいでとかそういう風になったりもしたので、人間的に成長するというのは多くの友や知人を作る事ではなく、どのようにして関係性を豊かにするかにかかっているのかもなあという理解もした。

人と関わり疲弊して何かをすると不理解のまま部分的にわからないままとかよくわからないままとかで行動を起こしやすいし、まあとりあえずは根源的に合わない人もいるし、距離感や考え方でこの感覚で付き合わないとだめだなあと思う人もいるし、少なくとも人間はすぐに信頼してしまうのは危険だなあと感じたな。

何年も積み重ねて人となりを知ってからはじめて知るものもあるわけだし、14年付き合っていてもわからないものもある。

友人や心許せる相手というのは対話の中でこの人のダメな部分とか得意な部分も含めて友人だと言える気持ちを持てる事なのだなあと思うのだ。

勿論僕自身の特性だか癖だかわからないが悪癖に近いようなものであまり言っちゃいけないような事も気づかず言ってたり、反省してもうまくできなかったりもしたけれど、それでも少しずつ改善はしているので、そこらへんもっとよくしたいなあと思う。
人である以上相手を尊重するという意識は大事だし、そこにずれが生じて無理に付き合うのを義務とするのは違うから。

表面上の言葉間違いや感じ方の違いで違うなと思うなら離れてしまったほうがお互いいいし、別れてしまうならば執着せず感謝して距離を置いておいたらいい。

こちらが会いたくてもあちらが会いたくない場合もあるし、今の状態だと、悪くいってるわけでもないし、相手を舐めてるわけでもないんだが行動や言葉でそういう風にみられるらしいし、言われた事も忘れてるらしい。

懸命に聞いてはいるし、こちらから言えば聞き逃しもあるとは思うけど、そこまで何度もいった僕だから仕方ないって言うんではなく爆発するくらいなら最初から怒ればいいのにとかも思ってしまうのだが、そこまでの関係でもないんだろうなあとも思い言うのもやめた。

空気や気持ちを察するのがものすごく苦手だが、そこまで我慢して怒るくらいなら離れるなり何か対応するなりしてほしいなあとも思うが、まあそれはそれで人間関係の気遣いの中にあるものもあるだろうし、僕個人も気を使ってるつもりでも無作法になってる場合もあるだろうし。

それに人間は言った事を忘れたり覚えてなかったりして言った言わないというのもあるので、誤解や本音を言うべきでない時は沈黙を守った方がいいし。

何より多弁になる事が適切な言葉を増やす事柄には通じないと最近理解した。
沢山の人と関わる事は疲弊するし相性が悪いという認識をもったし、言葉のやりとりで面倒になれば本当に自殺未遂とか平気でやる存在であるので。

相手からしてみたら厄介極まりない存在で警戒もするだろう、そもそもやりとりで合わないというかこちらの言い分も聞かずに自分の主張をするのかと認識してしまったらもう関われないし、すり合わせても無理だろうなあと思う。

自分の方が上とか努力しているのを誇るのはいいし、自分の見識や何かを言うのはいいが、容姿や相手の努力を軽視して何事かを言う人は結局どこでも合わないだろうし、合う相手がいるとこにいたほうがいいなあと感じた。

行動や言葉は悪いところはあったとしても、理由あっての話をきいて納得できないなら対等に関るのは難しいし、誹謗中傷を正論として言うのもどこか違うなあと思うし、色々と思う事もあるわけなので、今更僕は何かを言うわけではないけれども、面倒なので少なくともSNSの大部分はやめた。

振り返るとネットも有益な出会いも沢山あったし面白い事もあったけど、それ以上に重たくしんどい部分もあったので、そう考えたら今しばらくあってない長年の友人達との関係はすごく豊かで学びのあるものだったなと思うわけです。

ネット関係はリアルに繋がり有益な関係も勿論あるし、遜色ない部分もあるだろうけど、言葉だけの関係が先でそこに先入観が生まれやすく後から関係性に罅がはいったりなんだりが多いような気がする。

長く付き合っても別れる時は現実もネットも一緒だけれど、大切にしているようで大切に出来てなかったり、気づいたら流れて自分の望まない結果になったり、少なくとも疲弊する感覚が強いような気がする。

目の前で語るより安易に言葉を交わす事によってのデメリットも人によっては高いような気がする。

感情移入して生活に影響も出たりしたので、このくらいが今は丁度いいのかもしれないね。
長い前説みたいなのをツラツラと書いてましたが、色々書いてたらまた話も脱線するだろうけど、まあゆったりと書けたらいいのかなあという感じです。

人が人を想うのは人それぞれだからそういうのを大事にすればいいのかなあとまんねりとした毎日と空虚と悲しみもあるのは人なのだからそこに何を求めるかというのも大事なのかもしれないね。

何事でも自分の正義を押し付ける事も押し付けられる事もしてはいけないし、するべきでないし、勝手に絶望して別れるひともいれば希望をもって付き合う人もいる。

14年も付き合えば希望や絶望なんてよりもどんな人間かで関われるしある程度の部分は把握できるけれど、必ずしも絶対はないし、時には距離もとるし時には関わりもしないし、それでたまに出会うくらいがちょうどいいみたいな感覚もあるし。

何度も色んな人と関わってみて思ったのは必ずしも人は毎日色んな人と関わらないでいいという現実だったなあという事と公共の場所で色々と話していると語弊や伝えたかった言葉が違う意味で発せられるという事もあるということ。

それこそ気軽に音声配信や動画配信というものや発信する場所があるというのはとてもいいことだけれど、伝えたい言葉が違ってたり歪んで受け止められたりすることも沢山あるわけだし、大多数に伝えてその大多数の認知がそのままだったらそれはそれで誤解を助長するものでしかないなあと思うので、多分これは僕個人の見識であるし知識や知恵の認知のずれが起こりやすい発達障害や精神障害を持つ人達はやはり苦手な分野だと思うのです。勿論やるなというわけではなくてその誤解や伝え方の語弊を払拭するために工夫が必要ですし、まあ僕の場合はお前はSNSに向いてないといいながらもはまっていて色々とずっとやってましたが、結局ネットというものや人間関係に疲れてしまってやめましたが、声だけの関係や現実に影響する関係も非常に有益だけれども、不特定多数に会うのは非常に得意ではなく、行動がほとんど裏目に出る事が多いのだなあと自覚してからはtwitterを消したり、やるとしてもインスタくらいしかしてないかなあ。

一度人間は自分の差異を感じると距離を取るものだし、それは僕もそうだし、今の精神上、精神的に健康ではないので、自分の心の帳尻を合わせながら生きていけたらいいのかなあと、相手を悪くいうのは違うし、行動の中で不適応な部分も沢山あったんだろうし、自然消滅もこのまま別れるのも感謝して終わるのもありだなあとおもうし。

人は人として一人では生きてけないけれど、出会いと別れはきちんとあり、その中でお互いに長く続くか続かないかは判断していけばいい。

少なくとも基本的に僕は悪気があってやったことはないとは言えるけど、それはそれで受け手次第だし、考え方次第でもある。

僕は愛を知らないくせに無償の愛というのはあるものだと思うが、多くの人は無償の愛を信じてないらしいという事を最近知った。

まあ労働がある時点で大多数は愛とかそういうものでなくて物質的な対価の交換なのでそれはそれで愛とは言わないのかもしれない。

対価に情があっても。

誰かの参考を聞いてないわけじゃないし、不安定になってるなら意識しない行動もすることもある。

人間は生きている中で利益も不利益も混在させながら生きているわけなので、そんな中で色んなものを度外視して友達をしている樋口聖典という人やそのまわりにいる人達は本当に稀有な人達なんだなあと感謝しかない。

前説が本当に長くなったし長い14年の中で僕は記憶を保つのがあまり得意じゃない方なので、記憶に残っている部分を色々と書くので時間軸はめちゃくちゃかもしれませんが、まあそんな懐かしい記憶を掘り起こしているんだなあという風に想っていただけたら幸いです。

誰かの想い出は誰かにとっては無意味だろうし、誰かにとっては共感を持つものだろうし、これもなんてことのない他愛ない過去の話なので、それを思い出してたまには記してみてもいいのかなあとそんな感じで書いています。

基本的に好き勝手書くし、題材にされた樋口兄ちゃんとの認識の違いもあるのかもしれませんが、まあそれも長年の付き合いで許してくれるでしょう。

はじめて会ったきっかけは元々樋口兄ちゃんの弟君に知り合ってからだと記憶している。
元々東京に上京して中野付近に住んでいた時、路上で漫画喫茶の看板持ちのバイトをしていた時にたまたま近辺でバイトしていた弟君が路上に出ている時に飴をあげたのがきっかけだった。

弟君も今じゃ音楽業界じゃ有名な人なのだけれど、別に彼の名前を利用して有名になろうなんて思ってもないのであえて名前は出さないけれども、この後も何度か会ったりもしたけど、今はそんな縁もなくしばらく会ってないなあ。

まあそんなこんなで当時フリーの音楽家であった樋口兄ちゃんと弟君経由で出会い、なんだかんだ東京時代を過ごすわけです。

勿論都内で知り合った友人達と過ごしながら色々と無理をしながら生きてたのかなあ、それでも一番満たされた時期はここらへんだったのかもしれない。

色々と東京で専門学生をしたり働いたりしているうちに樋口兄ちゃんは同じく地元から出てきた幼馴染の人、その人とも仲良くして面倒みてもらったなあ。二人組のコンビで吉本に所属してお笑い活動もしてました。

今は吉本から卒業して活動してるみたいですが、同期はニューヨークさんとかユニバースさんだったかな。

渋谷の無限大ホールでよく見に行ってたし、なんかユニバースの女の人にドン引きの顔をされたのも覚えている。

僕個人もその当時から精神疾患を診断され、薬を飲みながら色々と仕事を転々としていたけれど、今思うと、落ち着いて過ごせたのは樋口兄ちゃんも含め対等に見てくれる色んな人がいたからかなあと思う。

落ち着いて過ごせる関係性があったからこそ東京は過ごせたのかなと思うけれど、途中からいろんな人と交流しすぎて自分を見失う事が多かったのかもしれないね。

長年付き合える人というのは根底的にお互いを見出せる何かを見つけられる人なのかもしれない。

僕は選択したのは僕なのだから誰かのせいにしたりとか悪く言わないようにはするけれど、もう少し付き合い方や考え方を考えるというのをすれば今まで関わりのあって別れた人ともそれなりに健全な関係も続けられたのかなとも反省はするけども、そうなってしまったのは僕にも色んな要素があったわけで、その経験を軸にまた生き直すしかないね。

様々な人に出会い経験したなかで今はどんな日常をしているのか知らない人も沢山いるから、それでも感謝して色んな選択をできるようにしたらいいよね。

長い人生記憶に留まらないものもあるし、基本的に好まない人種や追い詰められて自分が普段思い込まない事や判断で迷惑かけたり、離れてしまったりしてしまったこともある。
よくわからないまま人を信じたり紆余曲折なりながら結果的に人は全て愛で構成されているもんでもないんだよなあと考えたり。

人は全てを信じるとお互いにメリットデメリットが生じるんだろうなあと考えたり、最初から話せる人間というものはあまり多くはないなあと思う。

そんな中離れていても樋口兄ちゃんやそのまわりにいる人達は変わらずいてくれるのがありがたいかなあー。

人を知りたいから多くの人と出会って感じた事はずればかり気にしても仕方なく、常に改善するにはどうしたらいいかというのを考えていけばいいんだろうなあと感じた事。

長年の友人達はなかなか会えずとも会うべき瞬間であれば必ず語り合えるものだから。
常に進化し続け更新し続けるのが人間という種の特徴であるし、過去の物事を悔いて執着しても変わらないし、虐げられたり見下されたりしたことも忘れたりはしないが、そんな事は最早どうでもよく。自身が言うべき言葉が言い訳にしか受けれずに伝われないで離れたとしてもそれはそれでお互い幸運になるべき選択だったのかなと感謝して別れたらいい。
精神的な虚弱と痛みで何故そうしたのかと悩む事例もあったけれど、そういうものがあるから、精神的な痛みや苦しみは軽減するようにしなければ冷静ではいられないし、周りにも迷惑をかけやすくなると自覚した。

中には困っているのを良い事に好き勝手な事もする人達も多かったし、生活や人生も脅かされたりもした。

僕に必要なのは人を見極める眼で、好き勝手言ってくる言葉ではなく、対話として成立する言葉なんだろうなあと思う。

ようやく考えて思えたのは期待せず希望せず絶望せずちゃくちゃくと生活して人生を豊かにしていくという事だろうなあと。

お金稼ぎやら何かを誰かをするという事は基本的に相性が悪いし、小言や憎まれ口も言われやすいし、なんか面倒だなあとも思う。

別に言い返さず心で想えばいいし、又聞きで何か言われようともそれはその人が感じた一部分だし、そこまでの関係でもなかったんだろうなあと思うし、一喜一憂するのもあほらしいし、誰かを責めるわけでもないし、結果的に出来なかったらそれは責められるし、ならいちいち色々動くんではなくて下地をきちんとつめて自分の中で完結できるようにすればいいから。

大きなお金も動かそうともおもわないし後世に名を残そうとも思わないし、子孫を残そうとも思わないし、ただ自分の表現しうる事と自分の価値ある物事に価値を見出して、人生を豊かにするような日常を過ごせればいい。

周りはエンタメ気質な職業や色んな分野に突出した人もいるし樋口兄ちゃんも職業としては実業家と色んな側面の職種を持っているわけだから、基本的に知り合いは有名人である人が多いなあという印象だ。

気づけば皆売れているなあとは思うし、一時期何かをしたい人と組んだりもしたけど、申し訳ないが調子が合わずできなくなった事が多かったなあ。

自分の状態を言ってよいといっても自分からしてみたら誤認してる事も多かったし、意志疎通も出来てなかった人もいたし、基本的に熱意とかそういうのは相手方の方が強かった気がする。
複数で物事をすると色々と話してたはずなんだけどすれ違いが起きたりなんだりもして、結局消耗する事が多かったり、なんか色々合わなかったり、こっちが認識していることとあっちが認識していることが違う事が多かったり。

今はどうだか知らないが少なくとも次何かするときは自分一人か少人数で何かをするだろうけど、本当に不得意な特性ときちんと僕を知った上の人でないと色々と無理だね。

これ以上は愚痴や悪い形の言葉になり得るからもう言わないけど、少なくとも過去の反省を踏まえて何かをするために既存の社会を長く経験してみるというのはいいことだ。

何かに属するというのは圧倒的に合わないとわかっているけど、わかったうえで工夫するのはいいことだ。

樋口兄ちゃんとは東京で様々な経験をさせてもらったし、自分が朗読したり表現するイベントにも出てもらったりもしたり、ご飯も一緒に食べたり、樋口兄ちゃんのお笑いも見にいったり。

今思えば僕自身の常識のずれを根気よく付き合ってどんな形で関わればいいか学ばせてもらったのもこの人だったなあ。

あらゆる分野や業界の人とも出会わせてもらったり、有名な芸能人さんとも会ったりしたり、一般人だけども色々と感じるものを感じさせてもらった。

思い出話といっても文章で書いてみて思ったがこういうのは生で語るのがいいんであって、意外と文章に残すとなると結構色々まとめてわかりやすく書くので端的になりやすい。

冒頭でも書いたけれども出版社に出すか出さないかは別として書いてみたので、とりあえず無料公開noteにでも公開しておこうかなと。

Twitterはやめたし基本的インスタくらいしかやってないので機会があればインスタライブでも樋口兄ちゃん誘って話せたらいいのかなあと思っている。

とりあえず今、僕は色々と病気とかの療養も兼ねて地元茨城でA型作業所に勤務する準備をしていて、樋口兄ちゃんは今地元の福岡県に戻って仕事をしている。元々は福岡県の田川市という所で地方創生の仕事として廃校をリメイクした複合施設を経営していた。今は会長として社長にしたある方に経営を任せて今は自分の仕事をしている。
ある方というのは書かなくても大体皆わかるが、樋口兄ちゃんと僕との話なのであえて名前は出さずに書いていくスタンスにしたいと思う。

何度も僕もその場所に運んで色んな出会いを経た。
新しく病気にならなければきっと一年後くらいには滞在しながら何かをしていただろう。
そこは様々なスタジオがあり機材があり、バーベキューもできキャンプもでき、住む事もできて、食堂もありカフェもあり色んな物事が出来る場所。

一度自分を見失ったり、自分の地元より遠い田舎暮らしに憧れるなら遊びにいってもいいかもしれない。いいかねPaletteで検索したら出て来るから。

東京で樋口兄ちゃんの弟に飴玉をあげた事から始まった出会いは今も大事な付き合いとして今も残っている。
時に怒られ、励まされ、今も僕が生きている自覚をまた感じれるのは樋口兄ちゃんのおかげでもあるので、今後ともよき関係としていたいなあと思う今日この頃。

何だかんだ時間を見つけて福岡で会ってくれるのがうれしいし、何より樋口兄ちゃんとその取り巻く人間達の素敵さはきっと文章では説明できないね。

色々と書きたい事もあるけれど、それはまた機会あるときに書けばいいのかなあと思う。
思い出話は一度に語れないから思い出話というので。

良き人生を豊かにするために目標とする誰かがいるのはとてもいいものです。
樋口兄ちゃんの仕事でどんな事をしていたかは僕だと語弊が生まれるかもしれないので、色々検索してみたらいいです。
豊かな人生は期待もせず希望もせず絶望もせず、誤解はなるべくないように地に足つけて、少しずつ生きるのがいいんだろうなあと最近また感じました。

関わった全てと良好なままでいられるわけではないからどんな瞬間でもどんな形でも仲間でいてくれる人がいるのはありがたいもんですね。

僕は言葉や人付き合いがとても苦手なのに関わる事をしたのは夢や希望をもっていてそのために生きてきたけれど、どうにもそういう価値観というのは歪曲されやすい。
その中で唯一なものは文章を書く事だったので、そこにたとえ利益やそういうものが伴わなくとも価値が通じる文章が誰かに届けばいいと最近思ってる。
多分僕はお金を産み出す文章とは相性が悪いと自覚した。
だから共感と感じる何かがある文が書けたらそれでいい。
生活するだけの生活力と平穏さえ手に入れたら僕は満足だなあと感じたので、
多くの人達と関わる努力はしないでもいいし、何より孤独でいる時間も楽しく感じてるので、必ずしも外に向かうだけが選択ではないので、たまにでいいのかなと。

たまに誰かと出会い穏やかに過ごすという流れを産み出せばそれでいい。
たまに会える樋口兄ちゃんとの関係のように。

実際そんな関係で今も続いているからね。


発達障害当事者の詩人が色々と経験しながら生きていくかんじです。興味あれば支援してくださるとありがたいです