デモッキーのキャリアについて
幼少期から好きだった音楽
僕は幼い頃から母の影響で音楽に勤しんできました。歌謡曲から始まり、小5年位〜聞き始めた洋楽を特に好んで聴いていました。その中でもイギリスの音楽、特に70年代に席巻したパンクロックが大好きでした。
と、こんな音楽に出会い幼少期〜青春時代を過ごしてきた訳ですが、自分の大きなインパクトとして、私が生まれ育った宮崎県には当時、地元の新聞社が主催した夏休みをアメリカのホストファミリーと過ごすプログラムがありまして、何故か僕は中二の時に代表の一人としてアメリカにホームステイする事が決まりました。ここからが僕の本当の洋楽かぶれ、海外かぶれが始まる訳です。高校生になるとますますそれはエスカレートして音楽バカになっていきました。大学の志望は「海外の大学」と希望欄に書くと、担任が「お前はバカか」と罵られ、親との3者面談の時にそうとうバカにされ、母親も「この子はバカなんです」という始末で・・・(笑)
外語系の大学を卒業すると、とある大きなレコード会社に就職しました。
レコード会社に就職!
レコード会社に入社後は、特にマネジメント部門に入り、アーティストに纏わる業務を担当しました。スケジューリング、コンサートツアーの企画・運営、宣伝業務など多岐に渡ります。特にコンサート部門ではツアーの段取りやら、ツアーの準備、朝からトラックから機材を降ろして、ライブハウスから○○会館とか市民会館とかでリハーサル、本番、撤収、積み込み、そして次の街へ移動する。というのを繰り返していました。担当したアーティストは有名・無名問わず死ぬほど担当しました。
海外へ留学!
イギリスで認めて貰えない日本の高卒資格
大手レコード会社に5年ほど勤めて、母親が亡くなると同時に幼少からしたかった留学の道へ舵を切るわけですがこれが大変な作業で。書類を送ると、戻ってくるのに1ヶ月程かかっていました。1年目は我らが師匠(と勝手に言っております)ポール・マッカートニーの主宰する”Liverpool Institute for Performing Arts"(LIPA)という大学にとりあえず応募しましたが、全く受からず、これはもう「イギリスに行くしかない!」と考え、スーツケースにとりあえず身の回りのものを詰め込んで渡英しました。あらかじめ申し込んでいた英語学校に1年。その間に受験準備をしようと思っていました。まぁこんな考え甘いわけで英語もろくに話せない、どこの馬の骨だか解らない東洋の田舎者にたやすい事ではありませんでした。まぁ敷居が高い。イギリスの大学格を持ってる学校はほぼ国立なので応募するのも大変。そして何より日本の高卒資格があっても認められないというのも解りまして、愕然としました。本当に無計画で出たとこ勝負の自分を恨みましたね。
海外留学生のための大学へのプレスクールがあることを知る
留学を志す学生のため(学生といってもう既に29歳になっていました。社会人ならもう一人前ですよね?)に準備されてるコースがあるのも解ったので英語学校を修了し、僕はSt.Martinと同じ系列の”London College of Print and Distributive Trades”という舌を噛みそうな名前のカレッジに入ることが出来ました。現在は"London College of Communication"というロンドン芸術大学の中の一つのカレッジになっているみたいですね。
大学を飛び級して大学院に入学
そんなデコボコのイギリス生活でしたが、ファンデーションコースを経て、日本での経験を認められてなんと大学院に合格してしまいまいました。憧れのLIPAではありませんでしたが、University of Westminsterというロンドンにある大学のMaster of Arts(MA) Audio Productionというコースに合格しました。入学当時1997年。新設のコースだったからで、かなり大目に見てくれたんだと思います。この大学に2年間通いました。今は,1年コースなんですね。
そして日本に戻った
大学を卒業する前からイギリスに残って仕事するか、日本に戻って仕事をするか迷いましたが、イギリスでもレコード会社に入ることがある程度きまってました。これはトレイニー(助手。将来的に正規雇用になる前提。給料がほぼ無し)だったのでさすがに無給はキツいなと思い、日本に帰ることに決めました。今思うと、このタイミングでイギリス残留をしていた方がよかったのかも?と思う時があります。というのも日本に戻ってあまり言い方向に行かなかったからです。
入社した会社はいわゆるブラック、パワハラ会社だった
面接を受けた印象としてはアーティストを2つ、外部契約が1つのとても小さな少数精鋭の会社でした。小さいのでなんでも全部やらないと行けない、留学前に働いていた大手のレコード会社とは全く違ってました。最初はとても優しい上司、社長だと思っていましたが、入社して1ヶ月過ぎたくらいのある日、「ちょっと友達と食事に行くので今日は帰ります」と定時を過ぎて宣言すると、いきなり上司が「てめーこんな時間にかえれるわけねーだろ!」とブチギレて結局、退社する事が出来ず、友達との待ち合わせもすっ飛ばしてしまいまして、ここから縛り付けられる毎日が始まります。月〜土は仕事、日は会社で雑務の日々が8年続きました。この間に僕の頭の中は萎縮し続け、言いたいことも言えなくなり、仕事にも全く精細を欠き、ボーッと過ごす毎日でした。怒られないようにビクビクしながら仕事をし、「違う」と思ってもそれを口にせず、なんでも言いなり、言われるがままの生活でした。僕と同じような社員がもう一人いたんですが、コイツも毎日しごかれ、罵詈雑言を言われ続け、元々遅刻の多かった同僚でしたが、最後に大事な現場に遅刻・・・と言っても全く連絡が取れず、捕まったのが本番が始まってからという大惨事でした。本人はただ、普通に目が醒めたら夜だったと言う事でしたが、多分彼もそうとうまいっていたんではと思います。そのくらい過酷で理不尽な毎日を送っていました。
その日はある日突然やってきた
自分の意志で生きていない訳ですから、突然事切れたりする事があるんです。電車のホームからレールを覗くようになったりとか、走ってくる車に乗っかってみたらどうだろう?とか。色んな幻想を見るようになる訳ですが、ある年の大晦日のカウントダウンイベントの現場で決めました。次、この会社で何か起こったら辞めようと決めました。理不尽な事、不合理な事、やってらんない事。全てのネガティブ要素が起こった瞬間に。そして明けて1月元旦の朝まで仕事をして、2日から仕事始め。というま、いつもの流れでした。その時。12月の精算をやっていた時、(この会社、月〜土までオフィスワークがあるとすると、日曜は精算する日となってたので、実質休みは無かった)明らかに仕事で使わざるを得なかった経費に対して、「こんなの認められる訳ないだろ!」と正月早々怒鳴られ、色んな事が積み重なり、自分の机に戻るなり、机をひっくり返してパソコンをぶっ壊し、椅子で上司に殴りかかろうとした時にフッと我に返り、そのままバッグの中に入れていた退社届を投げつけて会社を後にしました。そのあと、死ぬほど電話がかかってきましたが、そのまま新幹線に乗って大阪に行きました。
プライベートで訪れた大阪がとても素晴らしかった。
正月の新幹線はとても空いてて、夜の街明かりがとても綺麗だったことを想い出します。あれほど仕事で訪れていた大阪だけど、風景もしっかりと見たことも無く、電車も使ったことがほぼ無かったので新大阪からミナミへ行くのも電車プランを見ないと解らないほどでした。USJってこんな遠かったんだ???とか???これまでに食べたことのなかった食べ物をたくさん食べたり、おねーちゃんのいる店に一人で行ったり・・・持ち金が無くなるまで使いました。明日の事なんか考えてませんでした。そのまま死んでもいいとすら思っていました。周りにも友達もいなかったので相談もできませんでした。
自分で始めたホテルへジャズミュージシャンを派遣する仕事
音楽の仕事をやっていく中で色んな国内外のミュージシャンと知り合いになりました。とある音楽プロデューサー(外国人、超有名)の紹介で当時、超高級ホテル(リッツ・カールトン、マンダリン・オリエンタル、コンラッド東京へトリオのミュージシャンを派遣する仕事をやることになりました。毎日、毎日途切れる事無くこれらのホテルにミュージシャンを派遣し続けました。その中で、とある女性との出会いがありました。当時、マンダリン・オリエンタルにバイトとして勤めていた韓国人の女性。とても美しかった。英語と韓国語、そして片言でしたが、日本語も話せるトライリンガル。ミュージシャン達の演奏や態度を監視しに行く時に話すようになり、時折食事に行くようになりました。彼女はソウル出身ではなく、地方出身で母子家庭と言う事もあり、自分の境遇に似ていて、親密な関係になるにはそう時間はかかりませんでした。
ジャズミュージシャン派遣の仕事を返してとあるビッグネームの仕事
韓国人女性とは彼女の大学卒業と同時に終わりを告げて、いよいよひとりぼっちになり、何年か疎遠になっていた友人から連絡があり、今の状況を聞かれ、今はフリーの仕事をしていて特にどこにも雇われていないという話をすると、今やってる仕事がとても忙しくて手伝ってくれとの事でした。話を聞くと、誰もが知ってる超有名アーティスト(バンド)のマネジメント、しかもチーフマネージャーという話でした。マネジメントから2年近く離れている自分にとってそれは大きすぎる案件でしたが、快くその誘いを受けることにしました。
超多忙を極めるマネージャー業
よく、マネージャーという仕事を聞くと思われますが、これは本当に多岐に渡る仕事でもあります。プロモーション、レコーディング、撮影・・・etc…etc…プライベートな事もたくさんやらないと行けません。ましてや売れっ子アーティストのマネージャーとなると寝るヒマもありません。そういう生活を2年ほど勤めましたがまた心がやっぱり疲れてきて塞ぎ込むようになりました。その後もその会社で色んな仕事を担当しましたが、退社に至りました。心は身体より持たないことがわかりました。
退社に至った理由が・・・娘の誕生
多忙過ぎた時期でしたが、だんだんと心が乱れ始め、心が壊れていた頃、ずっと知り合いだった今の奥さんとの間に子供が生まれました。2008年の頃でした。子供が出来たと言う頃からずっと満身創痍で続けてきた仕事が辛くなり、こんな事を続けていたら子供にも良い影響が無いはずと思い、心も身体もズタズタになって死人の様でしたので2011年の春頃に奥さんの実家である東北の町で暮らすようになりました。引っ越しをしてわずか半年であの忌々しい東日本大震災で見事に被災をしてしまい、原発事故により、長男が生まれるわずか10日前でしたので産婦人科も野戦病院みたいになっていて、出産を終えた人達がずらっと並べられたベッドで生活していました。そういう中で政府より逃げられる人、逃げたい人は逃げて下さいという事で、生まれたばかりの長男と3歳の娘と奥さんと3人で僕の実家である宮崎に避難をさせました。宮崎生まれの僕が被災地に残り、被災地生まれの奥さん、子供が僕の故郷に行くという訳のわからない感じになりました。そんな中で1年離ればなれの生活を続けていきます。
娘の幼稚園の選択を迫られた
娘が4歳になる年に、宮崎で幼稚園に行くか、戻って被災地での生活をするか?ホントに悩みました。当時は自分の仕事があったので離れて暮らす事を選択する予定でしたが、やっぱり奥さんにストレスが溜まってしまい、被災地へ戻る事にしました。当然、女性、子供は被災地から避難していることが多く、娘が幼稚園に入る時はわずか4名の子供しか入園がありませんでした。県庁所在地ですからそれなりの規模の町ですがそんな感じでした。
自分の心はますます崩壊が進んでいった
自分の家族が自分の元へ戻ってきて、また新たに楽しい生活を送れる予定でした。が、自分の心はますます壊れていきました。話すことも少なくなり、外へ出るのもやっとでした。その辺りから奥さんとのコミュニケーションも無くなり、あまり会話をする事もなくなりました。これは彼女が冷たいのでは無く、逆に話さないことにより自分をより壊さないようにしていたのでは?と僕は分析しています。塞ぎ込む時期が長くなり、2013年頃、とあることがきっかけでまた人生の流転が始まります。
ヘッドハンティング会社からのオファーが届く
そんなどうしようもない暮らしをしていた所にアイルランドにあるアメリカの会社のオファーが届きました。音楽とは全く違う仕事でしたが、受けてみるとすぐにアイルランドへ来るようにと。僕はそのオファーを快諾し、一人でアイルランドに渡りました。家族もいつかアイルランドに来れるように頑張るつもりで。アイルランドは英語圏で自然が美しく残り、EU圏であるので教育もEUのレベルで受けられます。正直、日本よりも素晴らしい教育が受けられます。そんな世界のスタンダードである教育を受けさせられるのを夢見て家族でヨーロッパで仕事をしていました。ヨーロッパでの生活はやはり自分には合ってるようで、自由で、自分を最大限に活かせる暮らしでした。新しい仲間と一緒に仕事をし、旅行をし、遊び回る暮らしは自分の最高の幸せでした。心も身体もリフレッシュしました。アイルランドの暮らしに慣れた頃にはすっかりと壊れた心が治っていました。
すっかり癒やされた心
アイルランドでの暮らしは本当に素晴らしかった。自然に囲まれアイルランドの人々は親切で誇り高い。お酒の好きな僕にはたくさんのお酒が造られているので酔っ払いの宝庫です。そういう暮らしで心も身体もすっかりと癒やされていました。5年目になる頃にまたしても・・・
HR(人事部)から呼び出されるのは一番ビビる事。というのは1週間くらいでクビになると言うことが容易に想像できます。そんなある日、楽しい日常に終止符が打たれます。やはり来週、クビになる。と言う事でした。僕は自覚もあったので得に何も言わず受け入れました。
そして、日本へ!
クビ宣告をされた日から、日本での職探しを始めました。色々と探してみましたが、自分のキャリア、しかも日本では全くそぐうところが無い、しかも5アラ50って。日本で仕事探しはほぼ不可です。そんな中、すぐに働けてすぐ稼げる仕事、タクシードライバーはどうか?と思い早速探してみることに。働く場所は東京だと思っていたので、東京・タクシー会社・転職。だったかな?でパソコンを叩いてみました。そして一番最初にヒットした今の会社にお世話になっています。面接に来てくれと言われ、日本に戻ってスーツケースを持ったままその足で面接に行きました。その場で内定をいただき、しかも寮住まいも認めてもらいました。それから研修、そして実際に業務を始めました。
コロナでロックダウン
世界中でCOVID-19の拡大によりロックダウンが始まりました。東京も外出を規制され東京で人がいなくなりました。そして、収入がほぼ無くなりました。困りました。そういう時に、とある大手のIT企業で創成期から勤めていて、自分の会社を内部で作った20年来の友人がおりまして、彼の会社の手伝いをやってくれないか?と打診されました。1年くらい彼のその会社を手伝いました、アニメや音楽に関する仕事。そして彼の会社に所属しているアーティストのマネージャーを担当していました。1年経ってだいぶ色んな事がまとまり、会社も安定して運営出来はじめたのと、街にも人が戻り、タクシー需要もまた高まってきたのでは?と判断したからです。
実は、他の会社に行こうかと思ってました。
タクドラに戻る前に、以前に勤めていた所ではなく、違う会社に行こうかと思っていくつかの会社を受けてみました。そして自宅からも近い会社にしようと思ってましたが、一応お世話になったので仁義を通そうと思い、連絡したら、「戻ってくれば?」と言われ元の会社に戻りました。黄色のクラウンからのやり直しでしたが、今の会社にして良かったと思っています。
最後に・・・
タクドラで生きて行こうと決めましたが、やはり社会的立場はかなり低いのが実情ですね。子供達はどう思っているか解りませんが、華々しい仕事から一転、毎日地を這い、へこへこして仕事をしています。でも意外と稼げる仕事だという事も解りました。現実、1000万普通に稼ぐドライバーもたくさんいます。そして僕みたいにコロナ禍で辞めたドライバーもたくさんいて戻ってきていません。
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