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ホームスクール類語Ⅰー日本ー

【ホームスクール研究】メンバーシップ共有記事です。
 
 「ホームスクール」「ホームスクーリング」「ホームエデュケーション」「アンスクーリング」などウェブ上やSNSで知られるこれらの語句についてさまざまな解釈があるので、それを整理します。
 ホームスクーリング・センター木蔭(まなびあい>多様なホームスクールの在りかた)の解説もあります。語句の解釈から、制度整備の課題も浮き彫りになりました。



「定義は無い。」が「解釈はさまざまにある。」

 日本でホームスクールを家庭が実践する自由はあります。しかし日本の教育に関する現行制度に「ホームスクール制度」とよばれるものはありません。ですから日本では「ホームスクール」は定義されていません。
 しかし、その概念は1990年代以前からありますし、「子どもが学校で教育を受ける」慣習が浸透していなかった時代には、「こどもは学校で学ばせるもの」の概念を広めようとした始まりのころには義務教育を家庭で行うことができる旨が明文されてもいました。

 一方、定義はなくとも実践者や支援者による解釈が多様にあります。世間一般的に”言葉のイメージ”によって解釈されている面も多々あります。
 日本国内ではどのような解釈が見られるでしょうか。
 整理することで、多様な解釈があることを理解し、共通認識を前提として議論が進むことがいかに重要であるかを再確認します。

「ホームスクール」の解釈

 「ホームスクール」は、「ホームスクーリング」もしくは「ホームエデュケーション」の同義語で使用されてきました。そして下記のような説明が一般的でした。後にはいずれの語句も少しずつ異なる解釈が拡がり、それぞれの流れを生んでいます。

「ホームスクール」は、米語で「ホームスクーリング」といいアメリカで使われており、「ホームエデュケーション」は英語でイギリスで使われる。

 2020年春以降、首相が全国の小中学校に一斉休校の要請を出すと、にわかに「ホームスクーリング」の語句が注目されました。日本でも海外でも同様のことが起こりました。しかし、それらの解釈はこれまでの「ホームスクーリング」とは異なる点がありました。

「ホームスクーリング」の解釈

 「ホームスクール」と「ホームスクーリング」はほぼ同じ意味で解釈されていました。ですが、そこに「アンスクーリング」の概念が加わると、「ホームスクーリング」と「アンスクーリング」の差異が大きい為に、「ホームスクール」の解釈の共通認識が著しくずれはじめました。
 そこでkokageでは、「ホームスクール」「ホームスクーリング」「アンスクーリング」のどの語句も知られている前提で、それらを整理しました。


ホームスクーリング・センターkokage
まなびあい
多様なホームスクールのありかた



 ホームスクールを総称として、ホームスクーリングとアンスクーリングそしてアンブレラスクーリングの説明をしています。
 
 「ホームスクール」の説明をするとき、ホームスクーリングやアンスクーリングそしてアンブレラスクーリングの形態(スタイル)をも含んだ意味で使用することができます。そうすることで「ホームスクーリング」と「アンスクーリング」の違いを説明することも容易になり、《どちらも「ホームスクール」ですが、その方法は多様なのだ》と伝えることができます。
 それまでホームスクーリングとアンスクーリングは少なからずその違いから対立を生む場面が多々ありました。しかし《どちらもホームスクールなのだ》と理解されることで、違いはあれどオルタナティブ教育の選択肢であると認識できるようになると考えたからです。

 「ホームスクール」を総称として、「ホームスクーリング」と「アンスクーリング」を位置づけた時、「ホームスクーリング」も「アンスクーリング」も具体的なイメージを持つことになりました。ただしこれらは”どのような形態か”を示すより、それぞれの異なるアプローチの特に優先している部分を示したものととらえます。こどものまなびと成長に向き合う根幹は同じなのです。ただなにを重視し、どこに目標設定を置くかなど、着目する点に大きな違いがみられます。家庭単位でいえば「ホームスクーリング」であれ「アンスクーリング」であれ、始まりのアプローチは違っていても、学びの機会は共有することもあります。興味関心の対象が同じであったり、必要な学習の選択が重なれば、そうなります。ですから家庭目線からいえば、どちらかでなくてはならない決まりもありませんし、どちらかに決めなければならない不都合ももちろんありません。ただ、法制度や支援内容の区分の観点でいえば、このふたつはやはり大きな違いがあるのだと認識する必要があるのです。そこでやはり語句の解釈というものは重要なのです。

「ホームスクーリング・アプローチ」の解釈

・時間割やカリキュラムがある
・スケジューリング(管理運営)によって計画的な実行性を持つ
・体系的な学習方法を活用する
・技術や知識の習得に一定の目標がある(大学進学や資格取得など)

 ホームスクーリング・アプローチは「親主導型」ともいわれます。木蔭ホームページ(kokage)でも参考書籍からの引用で、当初はこの表現方法を使っていました。しかし字面の印象からか、「親が教師役をする」意味に取られることが目立ってきたようなので、現在は使うのをやめています。
 本来は「親がよきコーディネーターになること」であり、「親がよきファシリテーターであること」を意味するものとして使っています。社会人として、大人としての親の責任と目線から、子に必要なことを見極め、学習するべきことを意図的に用意することを重視するアプローチです。勘違いしてほしくないのは、それが「親の願いのすべて」から始まるものではないということです。まず最初に「子(本人)の願い」があって、それを叶えるために必要な道筋を見据えているのです。
 「ホームスクーリング」は、箇条書きした「方法や手段」の内容を意味しているのではありません。ホームスクーリング・アプローチは、このような方法や手段と相性がよいのです。それでホームスクーリングの特徴的なスタイルだと認識されます。

ホームスクーリングの実践を支えるには


  ホームスクーリング家庭を支えるかたには、ここで一度、注目してほしいことがあります。


 「子(本人)の願い」が、本当に本人の素直な真意から生まれたものかどうか。
 親の期待に応えようとしたものではないか。
 世間の目に応え、社会に適応しなければならないと思いこみ、依存心から生じたものではないか。
 「〇〇でなければならない」と自分自身の可能性を縛るものではないか。


 期待に応えようとすることは、決して悪いことではありません。期待される才能に恵まれた人であれば、その才能を活かすことが社会への大きな貢献になりますし、才能があることの責任は尊いものです。しかしそれが個人の自由と幸せを、著しく、阻害するものであれば、問い直す機会は必要なのではないかとは思うのです。とても難しい問題です。なぜなら社会はそうしていつでも”個人の責任”におしとどめて、「出来る人がやる」ことを容認してしまうからです。
 

「スクールアットホーム」の解釈

 「ホームスクーリング」によく似ています。
 もっとも大きな違いは、ホームスクーリングがこどもの意思を尊重したこども主体の実践であるのに対して、スクールアットーホームはすなわち家庭が学校になることを指します。その学習スタイルや目標、教育方法や手段、カリキュラムが、本来、登校すべき”学校”のそれを家庭にもちこむものです。スクールアットホームの主体は「学校教育」です。
 コロナ期の家庭学習は「学校の勉強をいかに家庭でおこなうか」に焦点があてられたスクールアットホームの声が圧倒的でした。それを「ホームスクーリング」や「ホームエデュケーション」と解釈することも増えました。しかしそれ以前に実践してきた家庭からみるとそれなりの違和感を覚えたことでしょう。ただ「不登校」の観点からは、「学校の勉強を家庭でできる機会」として歓迎する空気でもありました。”学校教育をいかに家庭で行うか”の課題を多くの人が解決に取り組もうとしたからです。
 病気療養や経済的理由で学校に登校することが困難な家庭では、その課題は非常に重要なことのはずです。学校で受ける学習が必要だと思われる子にとっても重要なことです。これは義務教育期間だけでなく、それ以降の高等教育を受ける機会を考えれば、非常に必要な制度整備のひとつなのだと理解することができます。


制度整備の課題①

 ホームスクールを実践することと、学校に登校せず家庭で学習する機会を要望することとはまったく同じとはいえないことが伝わればいいなと思います。

 「制度整備のひとつ」と書きました。
〇学校教育を学校外で受けることができる
〇普通教育の機会を多様に選び、受けることができる
 このふたつはまったく別々で、それぞれに必要な制度整備の課題です。

「アンスクーリング」の解釈

 「アンスクーリング」は、非常に個別性が高いものです。そのためアンスクーリングの実践を認識している人の発信はそれぞれに興味深く、深い哲学を感じ取ることができます。
 おもしろいのは、「ホームスクール」を始めた家庭は最初こそ”学校的なこと”を試みるものですが、すぐにそれが子ども本来の成長にそぐわないと感じるや否や方向転換します。その様子こそが「アンスクーリング」になるということです。
 アンスクーリングは、【学校】の概念があるから誕生したようなものです。親にも子にも世間にもすっかり定着した【学校】という姿を、見えているものから隠れているものまですべて自分のなかから徹底的に洗い出すようなことです。「学校でない」を知るには、「学校とはなにか」を知ることが必須だからでしょう。
 そうしてやがて【学校】の姿かたちにとらわれないままの、「こどものありかた」や「人の成長」のありように魅了されます。その蜜月はとくにこどもらの幼少期にあるような気がします。そのころがもっとも親がこどもに近くいられるからかもしれません。「こども」と呼ばれていたひとたちは、止まることなく、人としての歴史を刻んでいます。その時間のなかに、「親」とよばれていたひとはどのような関係で存在し続けるのでしょうか。

 【学校】の存在に問いを投げかけることは、社会設計に問いを投げかけるのと同義です。社会のおとなたちが決めたルールに問いを投げかけます。そんなアンスクーリングのアプローチは「対等な人間関係」や「人間社会と自然環境」といったテーマにも深く目を凝らします。そのためにさまざまな”学習機会”を欲することでしょう。その環境を整えていくことが「ホームスクール」といって、家庭が主体となって子の教育に取り組む姿勢だと理解されています。ここでも「こども主体」であることの意味を再確認します。

 「アンスクーリング・アプローチ」は、「こどもの自主性尊重型」ともいわれています。前述した通り、kokageでもそのように記述していました。とりわけ「こどもの自主性」を尊重し、その自発性を待ちます。こどもによってはその自発性の表出に多様な手助けを要することもありますし、その手助けを見出すことも親の役割です。そのことはホームスクーリング・アプローチも同じで、家庭を基盤とする「ホームスクール」の在り方です。ただ「アンスクーリング」は、想像以上に「こどもの自主性」を重んじる傾向だといえると思います。それだけに難しい面があります。

アンスクーリングの実践を支えるには

 もしもアンスクーリングの実践を支えたいと考えるのであれば、もっとも重要な点は、親と子の距離感を見極めることでしょう。親と子以前に、「(親の立場に置かれている)人と(子の立場に置かれている)人」の関係が健全であるかどうかという点だと思います。もっともなにが健全であるのかすら、時には、「こうあるべき」に騙される場合があります。常にそんな思い込みや偏見や、知らないうちに内面化している価値観や概念をみずから認識し、それを解放したうえで、慎重に眺める必要があることでしょう。


 次は、世間のイメージにある「アンスクーリング」の一部です。果たして事実でしょうか?

・学校の勉強をしない
・机に向かわない
・自然派志向
・「遊び」から「学ぶ」、「遊び」で「学ぶ」

 少々、イメージが過ぎると思われます。イメージ先行といいますか、独り歩きしている印象が否めません。おそらくですが…

「ホームスクールは学校の勉強を家でするわけではない」
「教科書やドリルを使って勉強することではない」
「人間本来の感性を育む」
といったことが、やや別の言葉で言い換えられながら変容していったのではないかとも思います。そして”「遊び」から「学ぶ」、「遊び」で「学ぶ」”は実は大きな違いがあります。前者は「遊び」の要素に、学校で習う単元的な内容をあてはめて考える傾向があります。後者は、「元来、こどもは勉強嫌いなもの。遊び要素を加えることで学習を効果的・効率的に進め、身に着けることができる」という考えかたの傾向が強いように感じます。どちらも疑問点が大いにありますね。言葉のphraseとしては間違っていないのですが、どうも理解の深さが違うなと感じることは多かったです。



制度整備の課題②

 ホームスクールをはじめオルタナティブ教育を実践する家庭への支援は、ただ単に「学校外の多様な教育」としてとらえるだけでなく、家庭それぞれの生き方・在り方に寄り添うことが重要ということではないかと思うのです。「学校に認められるための」「公教育に認定されるための」なにかを
提供することが「学習機会の提供」することなのでしょうか。そうはいえないと思います。
 制度整備の課題には、そういった支援者の眼差しを問うことを見直されてよいと思います。なんにせよ、もっとも日本の公教育制度の根本の課題は、「学び」が政治と深く結びついていることではないかととても思っていますが。

「ホームエデュケーション」の解釈

 「ホームエデュケーション」の語句は、前述したように「イギリス英語である」という点がひとつと、もうひとつあります。

(※アプリケーションの不具合で英語表記になっているかもしれません。)

 「ホームエデュケーション」の語句を使いはじめたのが、フリースクール・シューレ(1985年設立。フリースクールの草分け的存在。ホーム・シューレは1993年から。)当時の代表者は、フリースクールに(近隣にあっても)通うことが難しい生徒たちに「家に居てもいいんだよ」の根拠に「ホームエデュケーション」の概念を伝えました。どちらかといえば不登校の受け皿の要素が強いフリースクールからの発信でした。そのため「積極的な不登校」「前向きな不登校」「明るい不登校」の意味を暗に含みます。
 学校制度を外から変える信念のもとに育っていったフリースクールですから、”学校教育と並列である自由教育”の立ち位置とは少し違った観念を持っています。”学校教育の多様化、自由化を目指す”姿勢が見えます。

「ホームエデュケーション」の実践を支えるには

 実際にはその家庭が「ホームエデュケーション」を実践していると認識しているか、「ホームスクーリング」を実践していると認識しているか、はたまた「アンスクーリング」を実践していると認識しているか、の違いはあります。そのなかには「不登校だ」と認識している家庭も当然あります。
 しかしながら、実際の過ごし方や意識を、ここでは【解釈】に記述しています。そのうえで「ホームエデュケーション」が、不登校からはじまる学校外の自由なまなびのありかたを望む家庭だと解釈するのであれば、その実践をささえるには、まず「不登校」についての理解は必須になるでしょう。

 「不登校」という語句は、そもそも学校の管理運営上で使われるものです。ただ単に、書類や統計上の「学校に登校していない児童生徒」を簡略化した表記だと捉えます。そのいわゆる業界用語的なものが、世間で使われるときには途端にその意味にさまざまな要素が付加されるのです。


「不登校」は、世間にはこんなイメージと連想がありませんか。

・不登校問題(「不登校は問題だ」という価値観)
・家に閉じこもっている
・ひきこもっている
・勉強ができない
・学校ぎらい
・学校の問題あるいは家庭の問題
・貧困の問題

 これらはイメージと連想です。「不登校」と聴くだけで、さまざまなネガティブな要素を色付けたのはメディアだと思います。そのことで、ますます「原因は不登校」という考えにおさまってしまい、感情的な問題に発展しがちです。事実から目をそらされてしまいます。
 「不登校の事実」は、「学校に登校していない児童生徒」のそれ以上でもそれ以下でもありません。そこにネガティブな意味を含む必要はありません。「不登校」の語句に結び付けることで、実はシンプルな課題を複雑に見せてしまうことがあります。前提を見誤ってしまうのです。
 「不登校かどうか」「不登校ではなくホームスクール」という主張は重要ではありません。「不登校」と結びつけることで、事実を飛び越えて、なにかしらの主張を正当化する大きな声にみなすようなことはしないでほしいと思っています。



 事実はなにか。解決課題と解消問題はどこにあるのか。
 ホームエデュケーションを実践すると決めた家庭を支えるのであれば、「不登校問題」をどうにかするためではなく、「ホームエデュケーション」をどうにかしようとするのでもなく、それぞれの家庭に寄り添うことに集中してほしい。もしも「ホームエデュケーションをする家庭の為の支援」と銘打つのであれば、「ホームエデュケーション」でなければ支援が受けられないハードルが生じてしまうからです。そうなれば「ホームエデュケーション」かそうでない家庭か、と登録分類を余儀なくされてしまいます。
 【解釈】と【意識】の区別、実態と家庭がどう認識しているかの区別をつけて、分別ある対処と対応の技術力が育つ支援の在り方は、確立されているのでしょうか。
 それがないので、支援はいとも簡単にビジネス商材に利用されてしまっているのでは、とも思います。


制度整備の課題③

 『制度整備の課題①』で、次のように書きました。

〇学校教育を学校外で受けることができる
〇普通教育の機会を多様に選び、受けることができる

 「ホームエデュケーション」の語句でその周知をはかろうとするとき、「学校教育を学校外で受けることができる」点と、「元来の学校教育から進化した学校になる」点をうかがい知ることができます。そしてそれらを日本の「オルタナティブ教育」と位置づけようとする傾向も見えます。

 オルタナティブ教育とはなにか。

 その理解と解釈の共通認識を前提にして議論しなければ始まりません。
 オルタナティブ教育とはなにか。
 自由教育とはなにか。
 普通教育とはなにか。
 学校教育とはなにか。
 どのような解釈を持てているでしょうか。


ホームスクーリング・センター木蔭
まなびあい
教育制度の法整備


 次に、ホームスクーリング・センター木蔭>まなびあい>多様なホームスクールのありかたで紹介している「ホームスクール」を支える3つの価値観念です。これらの意味と同じ意味で使われている語句はほかにもたくさんあると思います。意味と解釈を知ってもらえれば、と思います。

「ホームベイスド・エデュケーション」の解釈

 Home-based Educationです。

「ホームスクール」とは、「ホームエデュケーション」や「ホームベイスド・エデュケーション」ともいう。

 こんな感じで使われます。
 「家庭を基盤にした教育」を意味しますが、「家庭学習」「在宅学習」とも解釈されているかもしれません。前者は「ホームスクール」的解釈ですが、後者は「スクールアットホーム」的解釈を含みます。
 「教育」と「学習」の意味はどう違うのか、という疑問もあります。
 エデュケーション(Education)は、「教育」でしょうか。「学習」でしょうか。訳語にまつわる逸話はいくつかあります。それはまるで「ホームスクーリング」と「アンスクーリング」の解釈の違いと似ています。どちらの立ち位置で眺めた言葉なのかな、とも思ったりします。
 あまり使われることはありませんが、わたしは「家庭を基盤にした教育」の意味で、好んで使いたい語句です。「基盤」と「拠点」も意味の違いを配慮したいものです。

 木蔭ホームページでは、下記のように記述しています。

Home-based Education
こどもの権利と、まなぶことの自由が保障され、家庭が主体となっている。

ホームスクーリング・センター木蔭
まなびあい
多様なホームスクールのありかた

 「ホームスクール」を支える3つの価値観念のひとつとして置いています。「こどもの権利」「まなぶことの自由の保障」「家庭が主体」の3つの条件があって「ホームスクール」が成り立ちます。もし最初のふたつがまもられているのであれば、「学校」やその他の場所も、こどもの育ちにとって望ましい環境です。ですが、もしもそういった場所が家庭のほかに無いのであれば、家庭がそれらを「まもる場所」として腹をくくっているのだと、そんな思いが込められています。

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