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役に立とうとしなくていいんだよ

 「好きなことをしていいよ」。

 その言葉の裏にあるものを読み取ってしまうのは、どんな気持ちからでしょうか。自由を渇望する心?

 
 こどもたちにおそいかかるさまざまなプレッシャーについて、多くのおとなたちが知るところとなりつつあります。かつてこどもであったおとなたちが、そのプレッシャーをおしのけて、社会という自由を得てやっと活き活きと生きられる環境を手に入れたということなのでしょう。その姿を見て、「好きなことをしてもよいのだ」と、少しずつ、視界が広がってきたに違いありません。

 けれど、それでもまだやっぱり…「自由を許さないココロ」がそこかしこに転がっているのを見つけてしまいます。自由を渇望する心は貪欲なのかもしれませんね。いえ、それとも、まだまだ全然足りないよ、と教えてくれるのでしょうか。


「自由を許さないココロ」は、「好きなことをしていいよ」という音の裏にメッセージを込めてきます。

・好きなコトで成功するならやってもいいよ
・好きなコトが正しいことなら続けてもいいよ
・好きなコトが役に立つならこといいよ

 結局、誰かの承認を得て与えられる自由とか、自由を与える権限を誰かが持っているようなそんな感覚を覚えるんですよね。ほんと、どうでもいいなって思っちゃう。

 許される自由と許されない自由があるかのよう。


 なにかに夢中になっている姿、とことんやり尽くしている姿、真剣な目、ゴールなど視えなくても突き進んでいく姿。そんな「好きなこと」に没頭している姿そのものが、誰かにインスピレーションを与えます。インスピレーションがどのように生じるのかは、受け手のアンテナによります。相互作用というわけですよね。そんなコミュニケーションのありかただってある。
 それは時には互いに、知り合いでもない状況の中で起こることもあって、本の書き手の想いを受け取ることであったり、絵画を見つめた時の衝撃かもしれないし、音楽を聴いた情熱からかもしれません。
 日常のそこかしこにある些細ななにかの、ちいさな細工にだって、それは起ります。

 我が家のこどもたちはご存知アンスクーリングで育っています。アンスクーリングという言葉が指し示す意味は、未だ言葉として確定しない要素が大きい未知の部分であって「スクールではない環境のなかで」を追求している真っ最中にある、ということです。それは「学校ではない環境」を目的としたわけではありませんでした。
 ただ、長い学校のある歴史のなかで、学校ではないという環境をあらわす言葉が無いだけなのです。
 こどもたちは、そんな「学校ではない」環境の中に育って、次々と本来の「人間らしい姿」をあらわしてくれるのです。

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 思い出すのがこれなのですが。
 紙パックのふたの中蓋(?)です。これを6個組み合わせてひとつの結晶のようなカタチができました。
 これは「遊び」でしょうか。それとも「作品」でしょうか。

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 これは水性ペンのキャップを差し替えたものです。

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コップ一杯に張った水。コップに立てかけられたスプーンはいったい「どこに」接触しているのか非常に微妙で繊細で見事なものです。

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 これはゲームで使用する「コア」でつくりあげたもの。こういうのってなんだかとても夢中になりますよね。おもいつくまま手がとまることなく、次々とあらゆるカタチを描いていきます。

 これらはいずれも10代前後までに絶えず行われてきたことです。

 こういったことは、出来上がったなにかとしてみるならば、とても些細なものですし、「作品」として枠におさめてどこかに運んでいけるようなものでもありません。

 でも、これらが創りあげられているときのそれはフロー状態(体験)だと思うんですね。この体験があればあるほどおもしろいなと感じます。その体験を得るチャンスが、ホームスクールという制限のない時間のある暮らしにはよく転がっています。それが本当に宝だと感じます。
 この体験の積み重ね方は、次第に、その内容を成長させていくのでしょう。年齢と共に。興味関心の移り変わりとともに。
 そして培われたものは「集中力の高さ」「忍耐」「努力」「工夫」「知恵」といったもののようです。

 なにかの作品や課題を完成させるために、強いられた「忍耐や努力」、工夫と知恵を凝らしたかという「がんばり点」の評価は、期待される能力ではあるけれど、果たしてそれで生まれて伸びてくる能力なのだろうかとふと疑問に思いました。なにかが違う。人が生まれて成長して、身につけていく、数々のチカラを「身につけていく道筋」というものは、誰かに教えられてもらうようなものではないように思うのでした。

 確かに一定の技術の習得を、効率的に期間限定でおこなわれるためには、確立された「身につける方法」をあてはめたほうが、より「身につけやすい人材」にとって好都合な結果になるのかもしれません。それは適材適所の選別にもなりそうですし、適正を見るという意味にもなりそうです。

 でも、遊び、気づき、発見し、トライ&エラーを繰り返し、学びという成長をつなげていく時期にはどうでしょうか。必ずしも乳幼児期、少年期、青年期には限らないことだと言えます。なにか新しい分野に飛び込み、新しいことを見聞きし学ぼうとするいかなる年齢においても、学び成長する人にとってのそれは「ゆとり」のある時間と機会がなによりも栄養となるのだと思うのです。

 役に立つこと。それは確かにそれに越したことはありませんが、それが「すべて」でなくてもいいような気がします。

「いつか」
「いつのまにか」

 訪れるその日に続く”今このとき”です。

 怖れずに進め

 そんな言葉をかけたいものですね。

 それが役に立つかどうかで、なにかを決定したり、選んだりしなくていい。気持ちが、心が、それをするべきだと訴える”今”が必ずある。

自分に素直になろう

 そう思う。

 

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