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ホームスクールでも使える公的な支援制度(5月・定期の話題)

【メンバーシップ特典記事です】

 毎年、この時期になるとSNSで案内していた内容ですが、現在、主な発信はメンバーシップで行っていますので、毎年、共通する内容として詳しくご案内します。

参考)木蔭ホームページ
つなぎあい>コミュニティとサポート
公的な援助制度


ホームスクーリング・センターkokage
ホームページより

 小中学校の義務教育期間に申請することができる援助制度です。
 想定する社会設計が、「こどもはみな学校に行くもの」という前提があるので、”援助内容の種類(※1)”が基本的に「学校に登校・通学し、授業を受け、学校行事に参加する」ときに使えるものとなっています。つまり日本の公教育は、支援すべき教育機会として学校教育機会のみを対象としていることがわかります。

※1 援助内容の種類(例)
・学用品費
・新入学用品費
・修学旅行費
・給食費
・医療費
・通学用品費
・校外活動費

 不登校(学校に長期的に・積極的に・登校していない)だと、こういった公的援助制度を利用することを遠慮する気持ちを持つ家庭があるようです。

 ですが、一条校に在籍する児童生徒が対象となっていることと、基本設計が学校外の多様な教育機会に対応していないというだけであり、本来、すべての児童生徒が健全に安心して「まなび」の機会を得るための援助制度のはずです。

 長期にわたっている不登校であっても、またホームスクールやフリースクール、オルタナティブスクールであることが決まっていても、当然、申請することができます。遠慮する必要はありません。

 学校以外の多様な教育の機会を選ぶ家庭はみな「裕福でないとできない・してはいけない」ものでしょうか?それは違うと思います。

 なにより「不登校は誰にでも起こり得ること」です。

 そして、教育を選ぶ権利を行使するものとして当然のものだと知っていれば、経済的な理由がそれを妨げることは道理ではないでしょう。

 学校で教育を受けることも含め、どの教育を受けることも『特権』であってはならないものと考えられます。税金によって賄われる公的援助制度は、「特権の拡大」のためでなく、「特権にしないための」「不利益を是正するための」ものに活用されてほしいものです。



就学援助制度について(就学援助ポータルサイト)より

 以下、文科省 就学援助ポータルサイトより転記します。
 各自治体により認定基準に違いがありますので、要確認です。

1.就学援助制度の概要
(1)就学援助の実施主体
 学校教育法第19条において,「経済的理由によって,就学困難と認められる学齢児童生徒の保護者に対しては,市町村は,必要な援助を与えなければならない。」とされています。

(2)就学援助の対象者
a.要保護者
 生活保護法第6条第2項に規定する要保護者(平成30年度 約11万人)
b.準要保護者
 市町村教育委員会が生活保護法第6条第2項に規定する要保護者に準ずる程度に困窮していると認める者 (平成30年度 約126万人)【認定基準は各市町村が規定】

例)1援助対象となる方(下記のいずれかに該当する世帯)
①現在、生活保護を受給中の世帯
②生活保護の停止または廃止された世帯
③市民税所得割が非課税または減免をうけている世帯
④児童扶養手当の全額支給をうけている世帯
⑤国民年金掛け金の全額免除をうけている世帯
⑥国民健康保険税の減免をうけている世帯
⑦年度途中の転入において、前住所地で就学援助をうけていた世帯
⑧生活保護受給世帯に準ずる程度に、生活が困窮していると認められる世帯(※目安額 自治体による)

※上記に該当しない場合でも生計維持者が長期療養や失業等の特別な事情により、経済的に困窮していると認められる方は認定される場合があります。

文科省 就学援助ポータルサイト

 

《学習を受ける権利・教育を受けさせる権利》を保障するための制度


 「学校へ通っていないから」「学校で学習するつもりはないから」「学校とは関係のないところで学習しているから」という理由で、この公的な支援制度を利用しないでいるのは、とてももったいないことです。その理由の裏には不登校へのうしろめたさが隠れていることがあります。
 なぜ、そんなうしろめたさを感じてしまうのでしょうか。

 それは、「本来は、学校へ行くべきだから」とか「学校へ通う子どもたちのために使われる税金だから」という間違った考えから起こっています。
 こどもたちの多様な学習機会を確保するために求めたい制度とは、学校教育を受ける機会を拡大し、学校教育を多様化するものとは違います。
 オルタナティブ教育は、常に、公教育の在り方に問いを投げかけるものです。果たして、日本の公教育制度は、すべての教育を保障する仕組みになっているでしょうか?

 日本の公教育は、学校教育で定める基準をすべての教育や学習機会にあてはめるための制度を作ろうとしますか。それとも、日本国憲法の理念に基づこうとしていますか。それを見極めるのは市民の権利であり、義務であると考えます。

ホームスクーリング・センターkokage
つなぎあい
知っておきたい法律より

経済的格差を埋めるための制度か

 家庭から「不登校で、こどもの教育費にたいへんな経済的負担が増加する。不登校の子がいる家庭の経済的支援を!」との声が聞こえます。「不登校をきっかけに想定していなかった学習費が増加した」のは事実かもしれません。「きっかけ」であることは重要な事実であり、大切な観点です。なぜなら、実際に必要なことは「不登校かどうか」といった理由の正当性を認められることではないからです。

 その後の選択も、こどもが置かれる状況も、それこそ家庭により千差万別です。
 その千差万別な個々の状況を、”「望ましい環境」の設定に照らし合わせて、不足がある部分を支援対象とする”ことが、果たして妥当なのでしょうか。それを公平性があるとか、平等性を保つとよぶのでしょうか。

 もしそうであるならば、「望ましい環境」とはどんなものでしょうか。

 実はそれすらも家庭により千差万別であることは誰もが知っていることです。誰もが己のことであると知っているけれども、他所の家庭の状況に当てはめて想像できるとは必ずしも言えないかもしれません。

 「学校に通っていないこどもがいる家庭」という共通項で統一することは叶いません。もちろん、家庭により個々の状況は異なっているという認識は公的な支援内容でも認識されていてそれぞれの状況に応じることが含まれています。しかし状況に応じて段階的に進めることはあっても、最終目標に置かれている「望ましい環境」もさまざまで異なるものだという点は捉えられていません。平等性や公平性の維持を最優先とするために、一律の、統一された目標が置かれているかのようです。
 最終目標が不一致だと、組織として協同作業に士気が高まらないと考えられているからでしょうか。あるいは、日本のお役所体質に「失敗を許さない」「トライアンドエラーは許されない」「挑戦はしてはいけない」「成功が確実なことのみ実行が許可される」「慣習と成功を真似することで結果に責任を丸投げする」ことがあるからでしょうか。

”経済的支援を求める”とはなにか

 わたしが違和感を覚える点は、経済的支援の理由を「不登校」に置くことです。特に「不登校がきっかけで収入が減ったから」「不登校の子をもつ家庭は経済的負担がおおきい」というものです。だから「不登校家庭には経済的支援が必要だ」と主張することです。

 あくまで「きっかけ」です。
 理由でもなければ、根拠にもなりません。
 きっかけがなんであれ、その後の選択は委ねられているからです。選択はなんでもできる自由ではありません。さまざまな事情と理由によって制限が生じます。「できないこと」がそれぞれ持っているのです。
 そうでなければ「原因と結果」の観念によって「責任を取らなければならない」といった思考のように、「不登校ならば、こうしなければならない」制約があることになってしまいます。そんなものはありません。(※「制約」と「制限」のちがい
 

 ほとんどすべての家計において、経済的負担はどこにでもあります。
その程度もさまざまです。その内容もさまざまです。教育費にしろ、例えば通信費にしろ、交際費、レジャー費にしろ、家庭それぞれで優先したい家計の項目は違います。「豊かさ」を支えるライフスタイルが、それぞれの価値観において異なるからでしょう。そして、ある家庭での最低ラインは、別の家庭では間違いなく過不足が起こります。暮らし方の違いです。その根本は価値観の違いです。その多様性は区別されることなく、尊重されるものです。
 そんなあたりまえにある多様性の、いったいどれを基準にできるというのでしょう。
 そこが疑問です。

 もし、あるとすればそれは生活保護の基準です。
 今現在、その基準が生活保障の支援の対象となります。でも実際にはその仕組みも歪んだところがあります。その歪みこそが声をあげるべき点であることは言うまでもありません。不平等や不公平の理不尽を覚えるからです。

 現状で、国が保障する課題だと認識している観点は、そのような個々の価値観に基づくような「豊かさ」ではないのでしょう。どちらかといえば国が提供する事業が全体に行き届くための支援です。ですから、その価値観は国にあります。ならば、市民のひとりひとりが本当に必要とする支援と齟齬が生じてしまう事実は否めません。
 国の視点と市民ひとりひとりの視点の違いを自覚することは、市民自身が、支援の内容を選び、決定し、受け取るかどうかの判断と決断を持つ姿勢を創るでしょう。支援者と被支援者のいびつな関係を打破する方法だと思います。

日本国憲法第25条
1  すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する
2 国は,すべての生活部面について,社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない

支援の根拠を特権にしないために

 「不登校だから」「〇〇だから」といった属性を根拠にするには、その定義が必要になります。
 すると、「定義から外れた場合」の問題に焦点があてられるようになり、その違いが、「差」となります。
 制限による区別でなければ、それは根拠のない差別につながります。良くも悪くも定義に該当するならば得ることができる特権に化けるのです。

 すると定義づけするテーマ(属性)を認識させることが出発点になります。世間ではSNSでどれだけ注目されたかに比例します。社会問題だと認識されるまで大きな声になることです。

 では小さな声はどうなるのでしょうか。
 認識されていないけれど、そこに存在する声はどうなのでしょうか。

 隠されているものは、見えないまま放っておかれます。誰も気づこうとしない限り。



 一部を下記noteから抜粋編集しています。併せてご覧になっていただけると幸いです。



すでにあるものを活用する姿勢

 情報の「すべて」を知ることはとても難しいことです。ですから「知っている」ことだけが、「存在している」と勘違いすることもままあります。「知らない」から「無い」のだと思い込み、「無いのであれば、新たに作るべきだ」と早急に答えをだすことでリーダーシップを発揮しているかのように見える傾向が、近年、強まっていることも感じます。いくども議論されたことも、そうして、毎度毎度、同じ疑問にぶち当たり、同じように議論し、また同じ結論(つまり解決しない)にたどりつき、そして、次へと繰り越すことで、問題課題はいつまでも維持され、いつまでも問題を考えつづける事態も維持されることで、ある程度の、「進んでいる」ように見せかける効果があるようです。それを、あちらこちらで、いろんな人が、少しずつ時間をずらしながら、その進行をたどっています。
 なぜでしょうか?
 ビジネスチャンスだからでしょうか。
 情報リテラシーが低いからでしょうか。
 それとも、いまだ「子どもの権利」が浸透しないこと、「基本的人権の尊重」の根本的な理解が進まないことが、事を前進させない要因なのではないでしょうか。
 「子どもの声に耳を傾ける」の本当の態度を垣間見えることが、ほとんどないと感じることが多いからです。言葉の表現としてはそうであっても、実のところ、大人の期待に応えようとするこどもの態度や、大人が承認する正解を出すことが得意なこどもの意見だけが、大人に受け容れられることが当たり前になっているからです。身近なところで、日常生活で、そういったやりとりが常識になっているという意味です。普段の態度と違った特別な場所の、特別な機会だけでやりとりされることが、どうして日常に浸透するでしょうか。そんなはずはありません。

かつてはこどもだったのに

 つらいところです。
 こどもであったころの記憶も生々しく、かつてこどもであったころ、大人のどのような態度に傷ついてきたのかも、充分に理解しているのに、それでもやはりおとなという年齢になった今では、今現在を生きる、今のこどもたちの心の全くを共感することができるというわけにはいきません。
 同じ経験を持つ者同士であれば共感することはたやすいでしょう。でもそれでは一方の見方しかできていません。おとなになれば、多面的に、多角的に物事をとらえ、事実は事実として受け止め、なおかつ、感情的な部分を寛容に赦し、良い意味でのあきらめを知りつつ「今できること」に行動をうつす判断を持ちます。状況を見極めて、できる・できない、する・しないの決断をします。それは、こどものころには、なかなかゆるされない権限のようなものです。なぜなら、なんであれ、こどもはおとなの庇護下に置かれる存在だからです。
 どれだけ親が、子と対等であろうと努力しても、それが完璧にできることはありません。だからこそ努力が必要で、いつでも振り返る謙虚さが必要となります。
 しんどいですね。
 それを続けることもそうですし、完成しないと知っていることもそうです。

いよいよ「未来」にきているので

 自身がこどもだったころ、自分の「未来」は果てしなく遠いところにありました。「いつかやってくる」ようなものでした。

 でも、今置かれている自分からみた「過去・現在・未来」はすべてつながっていて、途切れることがありえません。そして、これはちょっと説明が難しい感覚なのですが、「過去・現在・未来」は一方向へ進む矢印が決められているものでもありません。”想い”は、すべて「同時」に存在します。
 ただ、忘れていることがあったり、まだ知らないこともたくさんありますが、できることは増えました。積み重なる記憶も大量になってきました。いくつかを呼び出して、必要なときにほんの少し思い出す程度です。けれど、大量の記憶は、直観で、情報をつなぎます。そのひらめきは、才能だけでなく、経験と知恵と情熱でできていると思いたいです。

 そんな人がたくさんいますので。

 101匹目の猿現象がもう起こり始めているのかもしれません。だといいですね。SNSやニュースといった頭を動かされる情報媒体からの影響を一時期限定してみると、感性がよみがえって、感覚的に時代を読みとるようになると思います。そんな感覚的な話もたまにはいいですね。

 こどもだったあのころ、どんな未来を想像していたでしょうか。
 自分以外の要素で、自分を構成するものはありませんでした。自分だったら選ぶこと、自分だったら好きになること、きっとそれを知っていました。その感覚をよみがえらせたなら、今の自分自身は、もうそれを引き継いでいます。自分を信じていけるかもしれません。

おわりに

 今回は、小中学生を対象とした就学援助制度を紹介しました。高校や大学対象となると、ホームスクールからは必ずしも必須な進学である価値観は共通していないので割愛しますが、それぞれ必要な時に必要な公的支援制度は存在するのだと念頭に置いておくことをお勧めします。「ホームスクールのための」や「不登校の子のための」の前提では視野を狭めてしまいかねません。条件設定を間違えないように、視点を変えることはとても重要なことです。

 経済的支援は、家庭の所得の問題に限らず、「こども本人」が本人の意思で使うことができることも重要です。家計が、全体的に困窮していると、給付金の用途が「教育」であっても、まずさきに「生活する」ことに金銭をあてなければならなくなります。ガス、水道、電気、家賃がそうです。食費がそうです。被服がそうです。程度の差で、どこまで優先するかも家庭によって違います。電気がなくても月の明るさで勉強する…なんていうことはなかなか無いでしょう。でも、それに近いことはあるかもしれません。
 かつての学生たちは、食費も住居費もうっかり教科書代に使ってしまった…なんて伝説も聞きますが、今はそうできるとはとても思えません。
 清貧が尊ばれることが正しいと考える時代ではありません。かといって贅沢せよということではないのです。贅沢できるほどに稼げよということでもないのです。
 「好きなことをする前に、やらなければならないことがあるだろう?」と、なにかを制限される生き方をまだしなくてはいけないのでしょうか。そこが疑問です。

 なにをするのが正解か。

 もう、その答えは出ない世の中にはいっているといっていいのではないですか。

 秩序を重んじる精神性と
 平和を実現する意思と行動と
 それらを持つ人々が世に知られ、多くの人が学ぶには、なにが必要でしょう。


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