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大金を紛失しました。心の整理をする

 大金を紛失していたことが判明しました。
 「現金にして家族の一か月の食費相当あるいは家賃一か月分を越える額面です」とお伝えすれば、より現実的な現状把握をしていただけるでしょうか。

清算したんだ

 「物を失う」「現金を失う」といったことに遭遇したときは、そのような考えが浮かびます。それで、安心を覚えます。

 人は、知らないうちに、「贈るべきものを贈りそびれ」たりします。「感謝の対価」を金額で表示されているゆえに、「自分にとっての正しい対価を支払う」ことは難しいものです。その感覚を養うには、ひとえに練習、慣れといったものが必要なのでしょうね。互いに気持ちよく感謝の気持ちを違和感なく、差異なく、送ることができると、とても素晴らしいですよね。
 ところが、それが難しいので、どこかで、めぐりめぐって、清算が起こるのだ、と私は考えます。
 それで、とても大きな額面であったゆえに、まったくこれまでの過去の清算を「よし!これですべて清算できたんだな!」と思った次第です。

 あとは。
 ウホウホ、と受け取るだけの人生が拓けるぞ!

 そう直感的に受け入れたのが、まず最初の私の真意です。

事の次第

 気になります?もし、よかったら読み進めてくださいね。【人の振り見て我が振り直せ】ってことになるかもしれません。

疲労の蓄積

 やはり第一に要因は、「判断が鈍っている程度には疲労が蓄積していた状態」だったということです。12月から1月、そして2月の上旬まで、その内容は違うのですが、ともかく「休むに休めない」状況が続いています。
 連休を予定していました。が、それも職場の緊急事態により消えました。

家計管理

 月々の支払いを複数の通帳で管理しており、それぞれに振り分ける必要があります。勤務先のショッピングセンター内に設置されているATMで、昼休みや仕事が終わった後に利用するのが常です。
 1月も、それまでと同様に、ただその場で入れ替えるだけのことでした。

 ところが、判断力が鈍っている私は、一度、必要な分を引き落としておきながら「待てよ?」とふと思いなおしたのでした。そして脳内で「これはあちらで、というより、数日後のあれをこっちに。じゃあ、これはやっぱり戻しておくか」などとぐるぐると考えを巡らせ始めてしまったのです。
 さらに、入れ替える予定の先のATMは混雑していて、昼休憩の時間を大幅に失う可能性が高くなることは一目瞭然でした。そこで、私はまた正解なようで、不正解な判断をしてしまったのです。
 そう、その場で大金を振り込まず、ポシェットのなかに入れたまま「次の機会にしよう」と決定してしまったのでした。

 しかし、次の機会は、仕事の終わりでもなく、翌日の休憩時間中でもなく、さらにその仕事が終わった後でもありませんでした。つまり、その日の昼から翌日までポシェットに大金は入ったままでした。

ポシェットのあるところ

 ポシェットは、勤務中、作業台の下に収められています。
 
 私物は、ただ棚の下に並べているだけでロッカーはありません。ですから、貴重品があるので、「誰かしらはそこに居る」ようには互いに気遣っています。まぁ、問い合わせなども突然、入りますし、対応する「誰か」は居ないといけませんから。

 だけど。
 朝番の私は、朝の作業のひとつで作業の部屋を数分の間、離れなければなりません。その間、作業部屋には誰も居ません。作業部屋には誰でも出入りできます。ショッピングセンター内のすべてのスタッフがそうですし、実はフロアからでも誰でもはいってこれます。ついでにいうと防犯カメラは無さそうです。

いつもは気をつけていたのに

 そういう警備のゆるいところなので、大金を置きっぱなしにするなどありえないことでした。
 でも、疲れと、鈍った判断力の【隙】をついて、それは起こりました。その【隙】に入り込めたのは、きっと《偶然》だったのでしょう。

 もしかしたら、部屋を後にする私の後ろ姿を見て、「しばらく戻らない」と確信したのかもしれません。
 もしかしたら、その日は「物色する日」だったのかもしれません。世間では、給料日の翌日になっていることが多いでしょうから。
 そうして〈たまたま〉、条件はそろってしまったのです。

すぐには気づかない

 すぐには気づきませんでした。

 現金を下ろし、別の通帳に入れずに、別の日にと考えたその翌々日に、また振り替えをする予定がありましたので、その時、現金がないものですから、先日の分はすでに振替済みと判断してしまっていたのです。
 そうではなかったことに気づいたのは振り替えから10日後の「引き落としができませんでした」のお知らせはがきでした。
 「そうだっけ?」と、まだその時点でも気づいていないのです。だって自分では、「済ませた」つもりだったのですから。それでまた引き出して、振替えをして済ませました。
 でも、ふと。「あれ?」と気づいたんですね。十分な睡眠をとった日の夕方のことでした。まるでやっとそのときに脳が記憶を正常に判断したかのように、「あれあれあれ?待てよ?」と記憶の再検索が行われたのでした。
 そして帰宅してから、手元にある複数の通帳の出入を確認したのです。この時点でもまだこう思ってました。「あぁ、勘違いだったのか。引き落とした口座に、まだ戻しちゃったのかー」などと納得しておりました。
 でもやっぱり「あれ?」となって就寝前にまた、なんども確認しました。
 そして判明したのです。
 最初に引き落とした金額が、【どこにも振り込まれていない】ことに。

被害者意識にフォーカスしてしまうと

 さて、〔直感的なワタシ〕は、最初に書いた通り、「清算できて、スッキリ。あとは入ってくるのを受け容れるだけだー!」になっているのですが、一方で、もう少し、現実に普通なワタシの気持ちにもフォーカスは揺らぎます。

怖い

 怖いですよね。
 窃盗犯は、さぞや私を間抜けな奴だとほくそ笑んだでしょう。生活に困窮した結果、止むに止まれず行われた犯行だとはとても思えません。だって、こういう時って…犯人は見知った顔であることがほとんどです。民間の侵入とは違って、職場の窃盗事件は「偶然、条件が揃ったから、出来心で」だったり、「スリルで」と窃盗癖であったりなのではないかなと思うからです。学校内で繰り返される学生の窃盗とほぼ同じ心理だと思います。進学校でもそれは起こりましたから。

 間抜けな私は、犯人にロックオンされているのではないだろうか。
 また別の月の「同じ日」に同じことが繰り返されたりしないだろうか。

 そんな「怖い感情」が湧き出てきます。

防犯

 盗まれた私が悪いことをしたわけでは決してないですよね。「盗まれた方が悪い」だなんて、悪事を正当化することはあり得ないことですし、許されないことです。
 防犯意識は確かに必要です。でも、人間、いつでも「完璧に」できるわけではありません。「疲れで判断力が鈍っている」。そんな【隙】を突かれるのです。
 「怖れ」の感情を動機にすると、極端に走ります。

 (現金を持ってこないでおこう)

 とか、ですね。そして「怖れ」は「疑心暗鬼」の心を際限なく膨らませます。それが非常に私の精神を疲れさせます。すると、さらに判断力を失います。自分で自分の行動に制限をかけて、みずから不自由になることを望んでそうしようとしている…ということに気づかないんですね。

 被害妄想や潔癖なところも増大します。

(盗みを働く人が、私が居る場所と同じ場所に出入りする。
 そんなところに自分が居ることが気持ち悪い。
 こんなところに居られない。)

(泥棒が働いて給料を得ているこの店で、買い物をするなんて絶対にしたくない。)

 こうなると、私の纏う雰囲気は「暗い」のひとことなんじゃないでしょうか。たぶん。近寄り難くなるんでじゃないでしょうか。すると人生が暗くなってしまうんじゃないでしょうか。
 いやだな、それは。もったいない感じがする。

記憶を塗り替える

 記憶を都合よく塗り替えるという手もありますね。
 万が一の可能性に「ATMからの取り忘れ」があります。なにせ、その時期は疲れていて、判断力が低下しているわけですし、「ATMからお札を取り出してきっちりポシェットに収める」までの行為を【確認する】いつもの行動ができていなかったかもしれません。
 もし、そうならば上記の「店内で働いているかもしれない人物と同じ空気を吸っている」状況は無いことになるのですから、のちのち、記憶を勝手に書き換えているかもしれません。
 これって紛失ということになるのでしょうか。「現金取り忘れ」の忘れ物届はありませんでした。取り忘れた現金を持っていかれたのであれば、盗難ってことになるでしょうか。(ちなみに監視カメラでは手元までは確認できないので「取り忘れがあったかどうか」は映像で確認することはできないとのことです。”次の人”の不審な行動を確認するためにはそれなりの手続きを経ないとどうも無理なようです。)

窃盗犯のことをどう思うか

 「起こった事実からどんなメッセージを受け取るか」が重要なので、「誰が犯人か」という点は一切考えることがありません。でも、ちょっと気持ちを向けてみると、こんな思いが湧いてきます。

 私はとても運が良い方です。とても「護られて」います。
 ちいさいかもしれないけど、常に「幸運」の持ち主です。

 そんな私の〈領域を侵害〉する人は、間違いなく不幸しか待ってません。するっと、自然とそう信じて疑いません。大金を手にしたときは「ラッキー!」と思ったかもしれません。でも、行っていることは犯罪です。それは不幸なことです。
 盗んだお金で、好きなものを買って欲が満たされて満足しているつもりになっているかもしれません。それはとても不幸なことです。
 「世の中不公平なのだから、自分の行いは正義だ!」などと思って、犯罪そのものに無自覚ならば、それはもっとも不幸なことです。
 なぜなら、そこには〔感謝〕が無いからです。あるのは【傲慢】だけです。真意に耳を傾けず、上辺の豊かさに目を奪われるみすぼらしい心は、常に常に、魂を渇かしていくことでしょう。それはもっとも不幸なことです。
 ふさわしい言葉は、きっとこういうことです。

 愚かな者は、悪いことを行なっても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現われたときには、苦悩を受ける。

『ダンマパダ』(真理のことば)第5章「愚かな人」


本当に幸せになればいいよ

 祈るとしたら、それだけですね。
 窃盗犯にとっての「幸福」は、その報いが現れることです。その苦悩にまみれて、おのれの行いを本当に「知る」ことでしょうね。どうぞ幸せになってください。望むのはそれだけです。

良質な睡眠で

 睡眠。だいじだなぁ、とつくづく思います。
 一晩、しっかり眠ると、頭がまわるようになります。判断力も戻る、ということです。
 防犯対策や働きかたなどなどいろいろ言われるけれども、根幹にもっとも大切で重要なことって、安心して眠れる、休むことができるということなんだと思うんですよね。組織の上のかたはぜひ、そこを目指しましょうよ。
 そのために必要なことを考えると、とてもシンプルに理解できるじゃないですか。

 安心して眠れるために必要なこと。
 つまり、それを阻害する要因をどんどん減らして、失くしていくことがひとまず目標になりますよね。分かりやすいことだから、始めやすいと思うんですよ。

 睡眠、だいじです。
 


「盗難に遭う」の意味

 「いったい、これってどういうメッセージなの?」なんて思うことはありますか。私はよくあります。
 「盗難に遭う」というのは、今ある現状から「距離を取りなさい」ということらしいです。私はその言葉を聞いて、はっと思い当たることがあったので、自分の態度を省みて、今後を深く考えます。
 今までもなんども考えてきたことでした。でも、そのたびに「私にはできない」と諦めてしまうことでした。なんども自分に問いかけては、本当の気持ちがわからず、みつからず、そして自信を失くして…。
 今度は「最後」かもしれません。本気で考えなければならないよ、という時機なのかもしれません。それはたぶん新しいこと…なのです。いままで経験したことがないこと…なのです。だから怖いし、楽な方に、「できる」ことのほうに逃げたいです。
 
 でも、それは本当の自分への裏切りかもしれない。

 もう時間はあまりありません。

死後に報い、ではないダイレクトに報いが現れる時代

 死後に地獄道におとされる呑気な時代ではなくなりました。

 執着に近い強烈な想いが、忠実に実現する時代にはいりました。
 ということは、

 「悪事に手を染めたなら、それは悪事でしのぎを削り、心に安らぎのない世界に堕ちる」瞬間である、と。そういうことも同時に成立するんじゃないかって思います。

 極端な「光」は、極端な「影」も生むわけで。都合のよいことばかりではないように思うんですね。安易に幸福になろうと「引き寄せ」に依存したら、そのしわ寄せがやってきてそうな気がしてしかたがありません。個人の意識が決定した世界の設定がそうなら、どうしたって、できることはその世界のルールにのっとっていくしかなくなるのかもしれませんよ。

生き方のルールって、きっと自分で決めている

 「思い込み」や「固定観念」を取り払うと自由になる…。

 その先を、生きていくのはどうでしょう。

 「自分ルールを自由に決めてみる」。
 で、作っちゃう。自分の世界の”幸せルール”。

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