「信用されていない」と知らされて、やさぐれたくもなるけれど…
よくあります。(職場の話です。)
なぜなら、わたしはだいたいどこにいても年少者でしたし、新参者でしたし、新人で若手だからです。あまり「後輩がいる」とか「指導する相手がいる」環境に身を置いたことがないからです。
なにか問題があると「新人がやらかしたのでは?」はまず最初に起こります。濡れ衣をきせられやすい立場です。
そもそも「新人はものごとを分かっていない」とみなされるものですからね。人間扱いなど存在しません。それはそれ、成果主義ですし、結果がすべてですし、排他的競争社会ですから。
昔と違って、「新人を育てる」環境はなく、「最初からできる人」求められているのではないかな。効率を求めて。時間や手間をかける余裕がなくなってきているのでしょうね。
すでに技術を会得している
指示通りに動ける
指示以外のことはしない(余計なことをしない)
自分で考えて主体的に動いたりしない
会社のルールには疑いを持たず従順である
これが、本当に現実にあるんですよね。びっくりです。
そして、こういう職場(会社?)は、若い人は来ませんし、はいってもすぐに辞めます。見切られているんですよね。
「若手を育てる余裕がない」のだと。
どういうところでそれが見切られるのかと言うと、自分と価値観の違う若い者は「信用しない」ところです。このあたりは同化社会ゆえんでしょうか。
新人や若手が技術的に未熟なのは確かなのですが、それでも「学ぼうとしている姿勢」を持ち、なおかつ「個々にまなび方を持っている」ということを受け容れる柔軟性を持ちえないという点です。
それは非常に学校教育的な面です。
一律に、同じ学習進度で、同じ学習方法で、同じ学習内容で、順番通りに進めて、課題をクリアしていく…というたったひとつの”学び方”に慣れているために、”個々に創意工夫の方法が身についている確立した人間である”認識が希薄です。
(そういう年代は、その年代限りで、会社も終わるのではないか…?と予想しています。あるいは、そういう”人材”がくる限りは続く…というものでしょう。続くのでしょうね。戦後変わらず、学校教育思想が存続していますので。)
すみません。ここからが本題です。
まあ、というわけで(?)、新人若手の自分なりの成長の仕方による行動をおこすわけですが、ジェネレーションギャップ甚だしい諸先輩方には理解できないゆえ、自分の理解できる範囲の枠にあてはめて解釈されることは必至です。
「おまえ、それはさぼっているんだろう?」
「おまえ、それは仕事じゃないだろう?」
「おまえ、それはコソコソと隠れてやるもんだ。もっとうまくやれ」
(いや、さぼってません。仕事に必要なことだから勤務時間内にやってるんです。)
(いや、仕事って言われたことだけしてても仕事になりません。仕事につなげるための仕事を見つけたり、作ります。だって仕事中なので。)
(いや、仕事しているフリをして仕事していないってなんですか、それ。そっちのほうが理解できません。)
えぇ?インテリですかね。
う~ん。職人気質とビジネスマン気質の違いですかね?
仕事とプライベートと分ける・分けないの世代間ギャップなのでしょうか。(注、「世代」の意味は同年代ということだけでなく、同質社会観念を持つという意味でも使います。)
仕事を持ち帰ることや、サービス残業を「あたりまえ」に思わないか、思うかの違いにも通じますね。
と、まぁ、そもそも信用されていないので、このような質問はされません。
「どうして、それをやろうと考えたの?」
「なぜ、それをしているの?」
「今は、なに(目的)をしているの?」
こういった質問は、【互いに学び合う】意識があってはじめて口から出ます。目線が違う者同士、観点が異なる者同士で、学び合いは有益です。ですが、ひとたび「先輩・後輩」関係に「上下関係」が加わり、さらに「指導しなければ!」の支配管理欲が足されれば、そんな対等な関係に育つはずもありません。
「信用されていないと感じると悲しいね」
そうね。でもね。いいの。
だって、自分は、自分のことを信用できる人間だと知っているから。
わたしは仕事のフリして、仕事にまったく関係のない私用をするようなことはできませんよ。心臓がとまっちゃう。仕事に対する矜持は持ってる。
「職場の備品を私用に使ったり、持ち帰るのは窃盗行為だ」と身についているものですから、それも無理。
「なぜ、それをしているのか。」の動機と目的は明白です。
もちろんその方法は仕事には活かせず、無駄に終わってしまう作業になるかもしれません。そこは未熟ゆえですが、「これは違う」と自分で分かることで、次の創意工夫が生まれます。
「これが知りたい!」の情熱は止めることはできません。
自分を評価するのは自分で、いいの
他人の評価なんて気にしないで。
なにごとも無視されずに、「そこには意味があるね」と評価されるのはよいことよ。でも、「それは正解。それは不正解だ」と評定するのは、それをする人の捉え方の課題であって、わたしの課題ではないの。
「”それをする人”が重要人物だから問題なんじゃないですか!?」の声は聴こえそうです。
そうね。それが人事だったり?上司だったり?指導役だったり?
それに合わせて動ける人はそれでいいと思うの。それはすばらしい才能だと思います。
残念ながら、そういう才能に恵まれない人もいるわけです。
わたしみたいに。
個人の尊厳を傷つけられても、それを無視して平気な顔をしていることはとても、難しい。心が壊れそうです。
自分だけは、自分を裏切ることが出来なくて、困ります。
そういう自分が好きで、もっと困ります。
そうじゃないと幸せを感じることができなくて、困ります。
社会に適合するってなんですか?って思います。
少なくとも、「適合はしてないな、たぶん」というのもちょっと思います。適合しないまでも、「距離を取る」ことで線を引くことができます。
自分に害が及ぶ事態になるのであれば、判断は必要ですよね。
生きているから、そうするし、そうなるの。
自分を見失って存在し続けることは難しい。
憐れみを覚える
それは決して「見下す」ことではないんですよ。
言ってみれば「生きている世界が違う」に近いかもしれません。大切に思うこと、大切にしていることの基準が違うと、そういうことかもしれません。
「ゆずれない想い」があるということです。
他の誰の判断基準では決められないんですね。
自分に恥じない生き方をしていたいし、どれだけ他人に蔑まれて、見下されて、みくびられていようと、自分だけは自分を信じていられる在り方でいたい。そう思っています。ただ、そこに固執したいわけじゃないからこそ、いろんな出会いを求めるし、多様な価値観や考えに触れ、刺激を求めて、自分の変化をこそ願うんですね。変わらないままの自分でいることはつまらないと感じてしまうからです。飽き性といったらそれまでかもしれませんが?
信念を持っているって、かっこいい人ばかりですよ。
揺らがないですからね。
その信念がどんなものか、なんて他人が知ることはなくていい。
そういう人間がひとりでもいる空気って、無駄ではないと思いますよ。
知らないところで波紋は広がっています。
その波紋の広がりに気づく人は必ずいます。その時じゃなくても、後々であっても。それくらいでいいですよ。
自分を生きていこう。
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