嵐と凪

母にがっかりするのに疲れた。つまるところこれに尽きる。親から愛情はたくさんもらったし私も受け取っていると思っている。けれど、母親は度々ヒステリックを起こして家の中をぐちゃぐちゃにした。それがトラウマになっている。その原因がなかなか毒で、私が幼少期から高校生の頃まで母はお茶屋さん(舞妓と芸姑と太夫がいるところ)で仲居をしていた。仕事を終えて明け方に帰ってきて何をトリガーにするかはわからないが突然泣いて怒りながらゴミ箱をひっくり返したり、テーブルの上のものを全部落としたり、とにかく暴れることがあった。父はそれをなだめるだけでほとんど諦めていた。母は元舞妓で辞めた後スナックで勤めている時に父と出会った。その頃から父は何度も経験しているので、またかという感じだった。一番ひどいのは食器棚を倒して全壊させたらしい。私が産まれてからはそこまではしなかったが、これは私のトラウマになった。母が帰ってきて布団の中で今日は暴れないかと小さくなっていた。ほとんどは酔って鼻歌を歌っていたけれど、もうこのまま暴れないのかもしれないと思う頃に爆発して、私はまた布団の中で絶望する。私は子どもで成長期だったから、親も私と同じように成長して変わっていく部分があると期待していたんだと思う。何度も家の中のものを壊してぐちゃぐちゃにした。普通の母親が欲しかったと小学生の頃に泣いて訴えたことがあるが、母親はひとつも変わらなかった。むしろ、普通の母親ってなんや!一生懸命やってるのに!とキレられた。私はそういうところが普通じゃないし、お茶屋の仕事はお酒がつきまとうので自分で感情をコントロールできないならやめて欲しかった。母はつみほろぼしに、働いたお金やチップが弾んだ時に私にお小遣いをくれた。毎回1万円だった。小学生から高校生までもらっていたと思う。子どもながらに汚いやり方だと思っていたけどお金に罪はないから気にせずもらって使った、

舞妓をしていた母は金銭感覚が壊れていた。特に食に対して糸目をつけなかった。秋になると晩ごはんに土瓶蒸しが何度も出てくるような塩梅。小学生の時、エンゲル係数を家庭科で習って、私の家は確実に破綻していると暗い気持ちになったのを覚えている。そんな母と結婚した父も生まれはボンボンだったので、同じようなもの。上り調子の時代を生きてきたのもあって、どうにかなるとしか言わなかった。

両親は自分たちの老後の対策やお金のことが全くできないということが5年前ぐらいにわかった。結婚を機に夫に確認した方がいいと言われて、貯金と保険を洗い出した。できているとは思わなかったが、本当に全く貯金がなかった。自転車操業だった。私は一人っ子なので、責任や後始末が全てのしかかってくる。結婚して家族ができたから迷惑をかけないように、親としてできることをやってくれと何度も話したが聞き入れようとせず、やろうともせず、努力もしなかった。このことに関して私は親を親と思っていない。

自由に生きなさい、迷惑はかけないからというのが母の口癖だった。幼稚園の時から常に言われていたので、すっかりその気で生きていたのに、ある日、お金がないのはお前のせいだ!お前の人生使って私たちの面倒をみろ。大学まで出させてお金がかかってるんだ!と開き直ってきた。自分の親がこんなこと言うなんて情けなくてかなしかった。父親は母に呆れているだけだった。年をとると人も変わる。親が変わるなら私も変わらなければならない。親の迷惑が私に来ないよう、できることを全てした。私は私の人生にしか気持ちも時間も使いたくなかった。この5年で親にはもう散々気持ちも時間も取られた。両親は私の中で凪のようにいて欲しい。私を揺さぶることもなく脅かすこともなく、ただただ何も私に及ぼさない、ただの親という記号だけになって欲しい。やるからには徹底的にした。中途半端なことをして長引いたり余計に関係が拗れることは避けたかったから、私にとって最善だった成年後見人制度を利用して両親に補佐人と補助人をつけて、お金を自由に使えないようにした。親はいよいよお金がなくなると平気で闇金を借りるような人たちだ。実際、母はお金がないので父名義の持ち家のマンションをボケ始めた父を包丁で脅して無理やり母名義に変えて、家を売ろうとした。口では「絶対に売らない」と言っていたが、家の名義をずっと自分に変えたがっていたのをついにやってのけたので、一つも信用できなかった。これは私に対する絶縁許可みたいなものだった。もちろん母はそんなつもりはない。後からわかったが、母は軽度知的障害の疑いありの診断がついている。

母はバツイチで子どもがいる。その子どもは養子に出され親戚に育てられていて、私の母が実の母とは知らない。親戚付き合いはあったので、顔も名前も知っている。親戚のお姉ちゃんと思っていたら実の姉だとある日知らされた。ちょうどその姉が結婚する時に教えられて、私は小学校6年生だった。そういうややこしい状態なので、母の名義にすると相続が大変になるからやめてくれと常々言っていたのに変えてしまった。あの子は、相続放棄するから大丈夫、なんてことを言う。本人は要らないと言っても、夫や子どもは捨てた親からもらえるものはもらえと言うだろう。私ならそうする。母はそういうことを説明しても理解できない。本当になんてことをしてくれたんだと頭が痛かったが、たまたま私が妊娠したので、孫のためという名目ですんなり私の名義に変えられた。妊娠初期に役所に通い手続きをして税金を払った。親なのに娘になんて負担をかけてくるんだろうと情けなくて堪えきれなくなり泣いて夫になぐさめられた。夫もこの辺りからやっと私の親がおかしいと思い始めたと思う。

そんな話の通じない狂った親に、後見に至るまでの5年間、正攻法でできることはなんでもやった。まともな親として扱って説得したかったのだ。というか説得できると思った夫が、私を説得して促した。私は話が通じないから無理だといったけれど夫は私の親のことを分かっていなかった。
月に使っているお金の使途や、どういう生活をしたら、どれぐらいでなくなるかなどパワポで資料を作って何度も説明をした。そんなことでは全く効果がないので通帳と印鑑を預かってお金のコントロールもした。父は家計に無関心。母は家計簿を付けられないのでスマホの家計アプリを覚えさせた。可視化してやっとやばいと母は気づいたようだったがそれでも生活は変えられなかった。電話をかけてきては毎回金がないとわめき、キレる。こんな少ないお金じゃ生活できないと言いながら、酒とタバコは欠かさない。猫がかわいそうだとなにかあるとすぐに病院に連れていって2万以上支払う。母は節約をするとか、何かをするならば何かを控えなければならないという考えが全くない。それは後見申請の時の医者の診断書で、軽度知的障害疑いがあるせいだとわかった。今まで話が通じたことがないのはこれが理由だったのかとスッキリした。大事な話、込み入った話、真面目な話はできた試しがない。昔、就職も結婚も何にも相談しないで全部決めて!とキレられてびっくりしたことがある。相談して欲しかったことにも驚いたし、私自身自分の人生なのになんで母親に相談するのかひとつもわからなかった。そもそも親に相談する経験が幼少期からないのだ。なので、知的障害であることに驚きはなかった。発達障害かと思っていたが家の名義変更くらいから知的障害を疑っていたのでまさしくその通りだった。説明しても理解できないのに行動はできる、アクティブな知的障害は本当にたちが悪い。家の名義変更で贈与税がかかることを説明をしたら私の家なのになんで払わないといけないの!とキレていた。物事に対する反応がいちいちこのような感じなのだ。本当に疲れる。

そんな中、父は責任逃れをするように都合よくボケ始めた。父も母に疲れていた。私に迷惑かけないように母より長生きしなくてはとボケる前の最後の方、振り絞って過ごしていたけれど持たなかった。父は父で直近の1年で150万円以上使い込んでいるのに、仕事か家のことでしか使っていないと言い張って話にならない状態でこっちはこっちで散々だった。父も自覚なしのクズだった。ボケてきて危ないので自営業の仕事を辞めさせて、すぐ燃え尽き症候群になって酒浸りになった。詳しく聞くと廃業手続きすらできていなかったので、私がしょんべんを垂らす父を無理やり連れ出し、役所をいくつか周り手続きを代わりにやった。30年以上働いて最後自分の尻拭いもできずにヨボヨボに弱った父はぼーっとしているだけだった。その後父はアル中の診断が降りて強制入院。退院してからは要介護3の介護認定が下りた。これも妊娠中に病院に付き添ったりして大変だった。退院の日、隣の県の病院に迎えに行くのが嫌すぎてドタキャンした。前日の夜に行きたくないと夫に泣いたら行かなくていいよ。お母さん一人で行かせればいい。と言ってくれた。実際母だけで電車を乗り継ぎ父を連れて帰ってこれた。私が今まで親を過保護にしすぎたのかもしれない。

妊娠中にこれだけのことをして、もう二人とは関わりたくなかった。行政に相談したら成年後見人をつけられるだろうとのことで、自分で申請することにした。行政書士に頼むと高いのだ。幸いつわりがなかったことと、思いのほかすんなり手続きができて、出産直前にギリギリ間に合った。行政の人は妊娠中に二人分の後見を通すなんて、うちで働いて欲しいぐらいだと言っていたので、まぁまぁハードだったと思う。私としてはこれを通さないとお腹にいる赤ちゃんと夫に危害が及ぶかもしれないので、必死だった。

両親がこれから起こすかもしれない問題から法的に完全に離れられたこともあり、出産をしてから3日に一度母のLINEに赤ちゃんの写真を送っていた。母からもかわいいね、とか普通の返事が返ってきていたので安心していたら、昨日安寧が壊れた。
「行政書士さんがお金渡しに来てくれた。おっさんの髪カット、私もカットいけない!化粧品も買えない!」きた。これだよこれ、せっかくうまく行ってても、毎回これで全てが壊れる。子どもの頃の明け方の癇癪と同じだ。おさまって穏やかな日々を過ごせていると思ったら、確実に母が壊す。だいたい1ヶ月で癇癪が起こる。ここ5年何度もきた。何度も説明した。お金は増えない。節約するしかない。そもそも自由に使えると思っているところから間違っている。金額的には生活するだけでもカツカツなのにそれすらわかっていない。私が保険の解約とコロナの給付金で作った貯金はどんどん減る一方。電話の着信拒否はとっくにしていて、LINEのやり取りをしていた。なにかあればすぐにブロックをして、ほとぼりが覚めたら解除をして、親をつかず離れずコントロールするというようなめんどくさいことをしていた。完全に放置する方がリスクだったからだ。最近は、赤ちゃんも産まれたし写真も見たいだろうからブロックを解除してこのままゆるくやり取りができたらと思っていたけれど、やっぱり裏切られた。本当にがっかりする。期待しているわけでもない。すでに何一つ期待していない。ただ、凪のように私の心を揺さぶることなく普通に接してくれていればいいのに、なぜそれができないんだろう。人は全くの悪とか、全くの善とかではないから、これだけ私を振り回す親でもまあしょうがないかと、心のガードをゆるめることがある。そもそも閉めっぱなしもこっちの負担になる。なぜ、私が親に対して自分の心を守るために、こんな風に気を回さなければならないんだろう。ブロックするにも私の心は痛む。あー親をブロックするなんてなんでこんなしょうもないことをしないといけないんだろうと毎回思う。なぜ、ブロックするような親なんだろう。何度ブロックしてもお金がないと私に訴えることをなんでやめないんだろう。毎回同じやり取り。私にお金がないとキレたところで変わったことなんて何一つない。自分の生活を変えるという視点がごっそりない知的障害の母と、ボケてしまった父。そもそも私は親にお米を定期的にECで買って送っているんだから感謝して欲しいぐらいなのだ。それに対しても感謝してるのかしてないのかわからない。その状態で赤ちゃんの産衣を買おうとするのでいらないと言ったが結局百貨店で買って渡してきた。全てが自分の思いのまま。歯止めも常識も筋も何もない。ただ母は気持ちだけで生きている。

とりあえず、今回もすぐLINEのブロックをした。解除することはもうないかもしれない。二度と話したり会ったりしなくても、もういいと言うぐらい、私はもう気が済んでしまっている。

解除してまた癇癪のLINEがくる方が、私には負担なのだ。連絡がない時が一番穏やか。赤ちゃんの写真を母に送って、かわいいねなどと返ってくるコメントも負担で見たくない。母のアイコンに緑のマークがついているだけでドキッとする。そういう気持ちにもうなりたくない。

母と接することで嬉しいと思う瞬間がもうない。あと何度会えるかわからないから会ってる時は子どもを抱かせておいてあげようとか、癇癪が始まったら困るからお金の話は避けておこうとかそれぐらいのもので、子どもを抱かせたいとか相談に乗ってほしいとか前向きなものは全く無い。義務感と可哀想という気持ちからの行動だ。生まれたばかりの赤ちゃんを見る両親はふやけた祖父母の顔をしていて、不思議なことに私はその様子を今まであったいろんな出来事が白紙になったような新しい気持ちで見られている。赤ちゃんの浄化能力はすごい。ただただ赤ちゃんと祖父母として見られる。

人はいつか死ぬ。それは一回きりだ。その一回は早くきた方が迷惑がかからない。死んだら悲しいのは当たり前だから、その一回がいつきてもいい。悲しむし後悔もするから、早くその一回が来ないかと日々思っている。後見をつけてもう私に害が及ぶことはないとわかっていても、そう思うことはやめられない。


#創作大賞2023 #エッセイ部門

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