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継続を目的にするとツラいぞと

ノートや手帳をうまく使いこなし続ける人にもうずっと憧れている。頭の中がぐちゃぐちゃで常に何か考え続けていないと気が済まない人間としては、紙に書きだすと脳内が整理されるということは何回も何千回もいろいろな記事で読んで学んで知っている。しかしできないのである。できて最初の7日間くらいで、その後は自然とノートに向かわなくなってしまう。

まずノートとペンを常に持ち歩いていることができない。ふと何かいいことを思いついた時が満員電車の中だったりすると、カバンからノートとペンを取り出すこと自体できない。諦めているうちに忘れる。そんなことが一回でもあると落ち込む。状況のせいにしているが何よりも致命的なのは過去に自分が書いた文章が恥ずかしくて読めない。綺麗なノートに自分の汚い字が這いまわるのも許せない。いたたまれないのである。

ちょっと話は逸れるが、ノートに書き連ねている人々は何ができるかというと、この過去の自分との対峙ができるということだ。「過去の自分が何を考えていたかわかって面白い」「目標をいつの間にか達成していた」「今の自分へのヒントがある」という具合に。本当に羨ましい。過去の自分を捨て去りたいだけの自分としては、数日間続いた日記すら捨ててきた。なら続ける必要もないだろうと言いたいところだが、この過去の内省もひっくるめてできる大人になりたかったのである。もうすごい勢いで大人だけれども。

話を元に戻すと、一度職場のメモ魔の方に話を伺ってみたことがある。その方は同世代の40代で、高校生の頃から日記も書きつづけているという。なぜそんなに書きつづけられるのか聞いたところ、「もうそれが習慣になっている。書きたい人は書けばいいし、書きたくない人は書かなければよい」という禅僧のような回答が導き出されてしまった。自分のモチベーションうんぬんではなく、もはや歯みがきと同じ習慣なのだという。習慣。もはや努力の上をいく神の領域、それが習慣。人間にはこれが可能なわけで、データ上では諸説あれど21日間続けると体に染みわたり始めるという。

私の経験からいうと21日間は短すぎる。一か月続けても習慣化できないことは多々あった。ここで話がもとに戻ってしまうが、「続けたい」ではなく体が欲しているからやる、または願望を無視してたとえ胃に穴が空こうとも機械的に一度続けてしまう必要があるのではないか、ということである。前者が一番好ましいが、人間その気持ちすら1日で変わってしまうことだってある。

そこで私が思いついたのは自分なりの「継続」の意味を変えてしまうということだ。元来の自分の中の「継続」とは、1日も欠かさずやる、方針を変えずにやる、決まった時間に決まったやりかたでとにかくやり続ける、ということだった。そこには好きも嫌いもなく、いやたとえ嫌いでも、やり続けた先に変化した理想の世界が待っている!と信じてやり続ける、それが「継続」だった。しかしそれは無理だった。どうしてもできない。そうやって途中でやめてしまう姿を自分で何度も見て、そのたびに自分を嫌いになってきた。嫌いなことをやって自分をも嫌いになるなんて馬鹿げている。嫌いは先に進めない。

だから自分にとっての継続は、すべて反対の意味合いにした。1日2日欠けても3日目にやればまだ継続している、方針や時間、やり方はその都度変えて良い、目的が変わらなければ手段はどうでもいい。これが継続。要は「継続」が目的になってしまっては苦しいのである。気が付いたらここまできていた、それが「好き」であり、「継続」は結果でしかない。人から見たら当たり前のことも、これは自分にとっては大発見なのだ。

親のせいにする気はもはやないが、幼少期から彼らには「楽な道に進むな、苦手を克服しろ」と言われて苦手なことばかり選んできた。もちろん中にはやってみたら自分の糧になるようなこともあるにはあった。算数が苦手でも計算は好きになれたり、ITに興味がなくてもこれからはITだと言われ就職活動はITにしぼって就職した。知識はある程度ついたが突き詰めることはなく、ITスキルを使って再就職する気にもなれない。

苦手なことを選び続けると、いつしか好きなことを忘れてしまう。好きに罪悪感を感じるととても生きづらくなってしまう。だから日常に好きなことを取り入れて、「気が付いたら継続していた」日常を取り戻すべく、私は今日もこれを書く。書くことが好きというよりは、キーボードを叩くことに悦を感じる。もはやフェティッシュの世界かもしれないがこのくらい軽い好きから始めればなんとかなるだろう、と思いたい。


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