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みるということ

お久しぶりです。
深夜に寝る前の本を読んでいて急にスジの通った話がポッと思いついたので急いで筆を取っています。

最近写真を撮ることが趣味になりつつあるんですが、かねてから美術が好きだったぼくはもちろん写真の美術史的な側面も知っておきたいと思うタチで、偏ってはいるけど写真に関する本を少しずつ読んでいました。その中で「森山大道」という写真家が大好きになってしまいました。写真集を何冊か買ってしまうほどです。その彼と深い交流があった中平卓馬との二人展が2023年に開催された際の書籍化されている図録を今日は読んでいました。
写真集のテイストで写真と少量の文章が並んで、最後に巻末資料的な感じに二人の対話だとか雑誌に掲載されていたエッセーなどが収録されています。そこで中平卓馬は電車に乗りながら景色が移り変わることとそれをみることについて書いています。

前略)そのときの視線は電車の動きとともに動いているのではなく、ある場所のあるものを制して捉えているのであり、その次に注意を惹くものが現れると、あわててそこへ移動する。中間はとばされているのである。いくつかの点があり、その点をつなげてわれわれは全体としての点を思い描く。ここでは実際に見たもの、見えるものと同時にイメージが介入してくるのだ。見ることとは、ただ見えるものの集積として成立するのではなく、実際には見えないが、そこに必ずあるとわれわれが思い描くもの——つまりイメージが混じり合って初めて成立する行為であると言って良いだろう。

「アサヒカメラ」1976年11月号

写真をとるということの前に見るとは何かを身体的に考える、非常に面白い文章でした。

私は、普段大学に自転車で通っているのですが、冬季の今は路面凍結や日暮の早さから地下鉄で通学しています。地下鉄というと、地下をメインに走行しますが、割と地上部も走ったりしますよね。高校生の時に使っていた東京メトロ東西線の区間では、地上部しかなく極端な例だとは思いますが、地下鉄でも普通の電車でも地上部を走行するのは天気がどうであれ結構気持ちのいいことだったりします(満員電車は除く)。ですが、私が通学に使う地下鉄は川を渡る際に30秒ほど土手と土手の間を通るくらいでそのほかの全区間で地下を走行します。それがなんだ、当たり前だって言いたいかもしれないですが、このときの中平のように外を眺めるって結構楽しいことなんですよね。信号待ちでも信号ではなく変なそっぽを向くことはよくあります。通学で使う地下鉄の川の地上部では社内が何かが少し明るく変化するように感じます。ずっと灰色に映る窓の外ではない自然が見える、街が見えることは毎日のルーティーンワークには重要なのかもしれません。逆に地下の部分ではわれわれは何を見ているのでしょうか?
何か閉塞的な息苦しくも感じるキャンパスは地下鉄の産物だったのでしょうか?私は地下鉄開業前の大学を知らないのでなんとも分かりませんが、やっぱり関係があるような気がします。地下か地上か。どんなイメージが混じり合って、見えない何を見ているのであろうか。

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