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人生を直線的ではなく螺旋的に考える

本を読んでいて、思ったこと。

少しずつ目の前の本や論文を理解するだけではなく、その分野ではどういう議論が歴史的に行われてきて、今どのような段階にあるのか、というある種、俯瞰的に物事が追えるようになっている感覚がある。

しかし、考えてみると、学部に通っていた当時と何かが変わったかと言われると何も変わっていないと思う。学部卒業後、5年という月日が流れ、仕事を経験したとはいえ、特段専門書を読むという点においては何もしていない。

しかも今読んでいる本の分野は、多かれ少なかれ学部の時に既に興味があり、要素要素としては知っていた。

そこでふと思った。なぜ今と同じような俯瞰的な感覚を学部当時に抱けなかったのか。

それは一度学問から距離を置いただけなのではないかと思う(学部でそもそも学問をやっていたと言えるほどにやっていたのかはさておき)。

当時は、目の前の内容がまずそもそも理解するのにそれなりの難しさがあり、それを更に俯瞰して体系的に理解するなんて無理……という思い込みがそうした俯瞰的理解を阻害していたのかもしれない。理解力や素養は別に当時から変わっていないのだから。

* * *

振り返れば昔にも同じような現象はあったように思う。

時は中学生時代。もう13年くらい前の話になる。当時僕はソフトテニス部に所属していた。中学から始めた割には飲み込みが早く、レギュラーになれる程度にはなったのだが、なぜかそこから伸び悩んだ。

でも今思うと、これもなんてことはない理由だったように感じる。一番大きかったのは、緊張しいだったこと。本番の試合だとなんかうまく行かない、とかそういうやつ。「練習でできないことは試合でできない」と言葉では言われて知っていたけど、理解はしていなかったのだろう。技術とかそういうことよりそもそも精神的なものの扱いがとても下手だったように思う。

こんな感じで「今ならもう少しうまくやれる」「当時の自分にアドバイスするなら……」という感覚を抱いたことのある人もいるのではないのだろうか。

こうした感覚は、距離をとったからこそ得られた感覚なのかもしれないと思っている。時間的・精神的距離のおかげで、自分を相対的に、客観的に見れている。おそらくそのまま高校でもソフトテニスを続けていたら逆に気づきにくかったことなのかもしれない。

* * *

小学校、中学校、高校、大学、就職……と人生の流れは一直線上でイメージされることが多いように思う。しかし本当にそうだろうか。「中学時代、ソフトテニスやってたけどダメダメだったんだよね」という過去の話として置き去りにしてひたすらに前に進むだけが道なのだろうか。

むしろ一発勝負ですべてがうまくいく人間のほうが希少種ではないだろうか。一直線上で描かれる人生は、短期集中型で各段階でそれぞれ一点突破できる人が最も功を奏するイメージなのではないだろうか。

個人的には、螺旋階段のようなものをイメージしている。常に色んな分野を動き回っているような。あちこち寄り道して、元の位置に戻ってきたら知らぬ間に少し高くなっているような感じである。

一点突破、短期集中ではないので、特定期間内で抜群の成績が出るわけではない(当然全国大会で優勝みたいことは起きない)が、長い時間をかけてじっくりと登っていき、忘れた頃に進展を感じることはできる。見方を変えれば、多分野を少しずつ育てているとも言えるので、ある日閾値を超えた段階で、突如多彩になったようになったように見えるかもしれない。

このように、努力を意識せずとも寝かせておくだけで改善することも多くあるような気がする。敢えて距離を取ることで、この効果をうまく活用できるのかもしれない。

社会人を5年やり、大学院に戻ろうとしている今感じていることなので、この効果を意図したわけでもなく結果論ではある。自分の選択を正当化したいという気持ちが働いているのかもわからないが、これを意図した道の選び方も悪くないのかなと思った。

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