歌 「きみはいるかな(戦地の家族たち)」

2020年初頭、米国とイランの摩擦が高まる中でブログに掲載した歌「きみはいるかな(戦地の家族たち)」を、noteに再掲しました。

こうした作品を20代の頃から作り続けてきたけれど「音楽に何が出来る? おまえにいったい何の意味がある?」そんな言葉を投げかけられたことは、一度や二度ではありません。

しかし、戦争の犠牲になるのはいつでも小さな個人です。
大国間の思惑のなかで過剰な圧力にさらされた個人を想像し、記録し、自らの事と捉えながらコミットを試みていく上で、音楽や映画、文学など諸々の文化は不可欠だと僕は考えています。
ロシアの侵攻を受けるウクライナに対して米国とドイツが大量の武器供与を決めましたが、それとは真逆の役割が文化にはある。

もちろん、きっかけは何でもよくて、楽器や絵が得意でなくとも、本にあまり興味がなくても、われわれによく似た戦地の誰かについて、身の回りの人と少し話し合うだけで、そこには微かな接続が生まれる。対話は、歌ったりセッションするのとほとんど同じことだから。想像の糸口が残されているうちは、人間はきっと大丈夫です。

ウクライナとロシア、安寧から遠く切り離されてしまったそれぞれの家族たちを思いつつ。

〈歌詞〉
 
きみはいるかな

そこにいるかな

あの頃と変わらない微笑みで
 


きみはいるかな

無事でいるかな

あの頃と同じように会えるかな
 
 

この争いは誰のため
 
この悲しみは何のため
 
僕らは何度も転び
 
何度も立とうとする
 


ミサイルが落ちて
僕らはあわてて
薄汚れた板戸をこじ開ける
 

何にも見えない
暗闇のなかで
子どもたちの吐息は流れ星
 
 

この争いは誰のため
 
この悲しみは何のため
 
僕らは何度も転び
 
何度も立とうとする
 


きみはいるかな

そこにいるかな

あの頃と変わらない微笑みで
 


きみはいるかな

無事でいるかな

あの頃と同じように会えるかな


(元記事)
http://tavito.net/blog/202001post-17.php


noteでの記事は、単なる仕事の範疇を超えた出来事について、非力なりに精一杯書いています。サポートは、問題を深め、新たな創作につなげるため使用させて頂きます。深謝。