見出し画像

傾く氏神様

1年ほど前、我が家の氏神様がちょっと傾いてることに気がついた。氏神様のお社が、と言った方が正しいのかもしれないが、我が家では昔から、石造りの小さなお社ごと「氏神様」と呼んでいる。

庭からかろうじて見える氏神様。家の前の山で木々に隠れひっそりと座す氏神様は、全体的に斜めになっていた。

そのことは時々会話に出る。今回もまた、母と氏神様の話になった。お正月が近いから。

「去年は『お父さんが氏神様に元朝参り』って書いてあるね」
私は食事日記の最初のページを開いた。

我が家の食事日記は、3年連用タイプの日記帳につけている。書くのは食事内容だけではない。神事・仏事の作法や、季節ごとの家仕事の覚え書きにも利用していた。

1月1日のページを開けば、短い文章ながら、去年のことがありありと思い出される。――そこにはまだ、父が生きている。

1月1日
2021年金曜
朝:雑煮、あんこもち(つぶあん)
  磯辺巻(生姜醤油絡める)
  昆布の魚巻
(餅、2個×3種は多かった)
昼:なし。おなかすかず。
  煎餅やパンで各々済ます。
夕:姉家からのカニしゃぶ(うどん、豆腐)

・神様へのお膳、2膳上げる。朝だけ。3日まで。
 昔はもっと上げていた。馬屋とか納屋とか。
・父、氏神様に元朝参り。米を少し持っていく。米用の巾着は台所の引き出しに。
・コロナ禍で泊まりっなし。父母と3人のお正月。

その下には、今年の記述。

2022年土曜
喪中によりお正月なし。母と2人。

そしていつもと変わらない内容の食事。お正月がないのは楽だったが、母と私と愛犬たちだけで、親戚も姉夫婦もいないのでは、やはり寂しい。せめてコロナ禍から早く解放されたい。

「お父さんが亡くなったから、いよいようちも滅びの時が近づいてきたっていうことで氏神様が傾き始めたのかな」

こういう真顔の冗談は、母に大いにウケる。

「や、あれはね、もう何年も前から傾いでだのよ。んでお父さんに語って、お父さんも直しに見さ行ったんだけんとも。まったく動かなくて、直せなながったんだ」

「ああ、そうなのね。てっきりお父さんきっかけで傾き始めて、私が将来バアサンなって、最後の一人としていよいよ逝くってときに、氏神様も一緒にゴトンッて音立てて倒れるんだと思ったわ」

「そいづハいいな! いっちゃ、一緒にいでくれんだから!」
「んだね。私の魂に寄り添って、一緒に成仏してくれんのかもね」
「んだんだ!」

こういう軽口を叩けるうちは、平和である。
それでもまだ、父を思い出すと目の潤みを止められない母ではあるが。

  *

氏神様の山へ入る。
数本の杉が両脇に立つ、ミニ参道を歩く。

ひときわ大きな2本の杉が、正面に鳥居の如く左右に並び立つ。その真ん中に座しているのが、氏神様。

「こういうのは2本の木の間にあるもの」と祖母が昔、母に言っていたらしい。
タロットカードの本で、同じような説明を見たことがある。2本の柱は門と同じで、こちらと向こうとでは世界が違うのだと。

そのことを知る前から、独特の雰囲気は感じていた。
やはり鳥居に見えるからだろう。2本の杉の木から奥は、神聖な空気が漂っているように見える。

しかし不思議なもので。
庭から見ると気になるくらい傾いているのだが、間近で見るとそんなに違和感がない。
氏神様の領域に入っているからだろうか。

膝を折り、手を合わせる。
「今年も残りわずかなので、ごあいさつに来ました。いつもお守りいただき、ありがとうございます。来年もよろしくお願いします」

立ち上がり、来た道を戻ろうと振り返る。そこからは、我が家がとてもよく見渡せた。氏神様は、毎日ここから見守ってくれているのだろう。

庭に戻って氏神様を見ると、やはり傾いている。
でもきっと、私が生きているうちは、倒れることはないだろう。そんな気がする。うちの氏神様だもの。

もうすぐお正月。
今度の元朝参りには、私と母で行くことにしよう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?