【小説】短編集サクラサク(4/4) 1年後
短編集サクラサク
4.1年後
息子が会社を辞めると電話で言ってきたのは、入社してからもうすぐ1年が経とうという頃である。
高校卒業前に車の免許だけは取っておけという私の言いつけを守らず、自動車学校に行きもしなかった。
部活もいつの間にか行かなくなっていた。
頭の出来は「中の下」か「下の上」。
教科によっては「下の下」である。
当然親戚からの評価も、低い。
唯一胸を張れるのは、そんな息子が高校3年生になって急に成績を上げ、大学まで行けたことである。
だが(特に私に対しては)愛想が悪いあの息子が、社会人として上手く立ちまわっていたかは、実の母親である私としても甚だ疑問である。
とは言え、せっかく正社員として採用されたのにたった1年で音を上げるとは何事か。
説教しようと口から息を吸い込んだところで、不覚にも息子に先を越された。
「もう会社とは話ついてるし。荷物もまとめて引っ越し業者に頼んであるから。来週そっちに帰る」
どこにそんな行動力があったのだ、うちのバカ息子は。
宣言通りうちへ戻り、ニートと化した我が息子は、毎日どこかへ出かけてゆく。
「あんた毎日どこ行ってんの? ハローワーク?」
「……いや」
「まさか働きもしないで遊びまわってるの? いっつもあんたの友達だか先輩だかが車で送り迎えしてるよね」
「別に母さんが想像してるようなとこで遊んだりしてねぇよ」
「でも昨日は日が暮れる頃に出かけてくし、今日はこんな早い時間に朝ごはんも食べずに行くっていうし。あんた一体どこで――」
「あーっ、うるせーよ!」
玄関のドアを乱暴に閉めて、息子は出ていった。
「バカ息子め、人が話してる途中だろうが」
こういうとき、父親がいたらどうしただろうか。
父親がいたら、少しは違っていただろうか。
そんな風に弱気な考えを起こしてしまうのは、あの子の気持ちが見えないからだ。
「……だったら見えるようにすればいいか」
息子を乗せた車の音は、昼過ぎに戻ってきた。
家の前で息子が降り、軽く言葉を交わして車は発進。息子は玄関へと入っていった。
家から少し離れたところで見ていた私は、両手を広げて車の数メートル前に飛び出した。ブレーキが強く踏まれて車が止まる。
すぐに駆け寄ると、息子が学生の頃何度か見た顔の男の子が運転席にいた。
その子も私を覚えていたらしく、
「おばさん、どうしたんですか。危ないですよ」
窓から顔を出してくれた。
「ごめんね、驚かせて。ちょっと……聞いてもいいかな」
気を悪くしたらごめんね、と前置きをして、できる限り腰を低くして、私は息子の友人にいつもどこへ行っているのかを尋ねた。
彼は「えっ」と短く発すると、意外そうに目を見開いた。
「おばさん、聞いてないんですか? あいつ今、ジシャコーに通ってんですよ」
「ジシャコー……って」
「自動車学校」
今度はこっちが目を丸くした。
聞いてないそんなこと。
でもだとしたら、朝早く、あるいは遅い時間に出かけることも合点がいく。
「あいつ、キャンセル出たとこにガンガン入ってんですよ。今日はもう2時間乗ったから帰ってきましたけど」
今の時期、自動車学校は高校生でごった返している。予約はどうしても取りにくい。が、朝一と最後の時間というのは嫌がられるものだし、キャンセルも出やすい。
天候が荒れれば尚更で、先日はバケツをひっくり返したような大雨が降ったが、そういう日はてきめんにキャンセルが続出する。
息子は、その日も出かけている。
お金はどうしたのだろう。
私のお金をあてにしていないということは、自分で出したのだろうか。
まさか友達に……いやいや、まさか。
だってあの子、いらないって言ってんのに時々私に恩着せがましくお金よこすし。一応大卒だから、お給料もよかったのかも知れないけど……
だとしたらあの子、ちゃんと貯金してたのね。
「おばさん、心配しなくてもドライブで遠出とか全然してませんから。俺は何度か誘ったんですけどね、いっつも断られてばっかで」
「そうなの? なんでかしら」
「なんでって、そりゃあ……」
言いにくそうにしている彼に、半ば強引に続きを催促する。
「あいつ、間違っても事故には遭いたくないからって。俺もしょっちゅう怒られんですよ。スピード出しすぎんな、車間距離ちゃんと取れって」
「あら、そう……。随分と臆病なのね、うちの息子」
でも内心ホッとした。
この子には悪いが、免許取りたての若い子たちは、ややもすれば調子に乗って事故をおこしやすい。数年の間は友達同士でドライブはしないでほしい、というのが本音だ。
「あーおばさん、ちょっと違うよ。あいつがすっごい慎重になってるのはさ、ほら、……あいつ、父親……いないでしょ?」
「えっ」
モゴモゴと濁り気味の彼の言葉が胸を衝く。
「う、うん……そうね」
「で、今おばさんと2人だけでしょ?」
「……うん」
「だから万が一にでも、俺が先に死ぬわけにはいかないって。母さんにはこれ以上苦労かけたくないからって。……あいつ、照れてはっきりとは言わないけど、そんな感じのこと言ってたよ」
一瞬、のどが詰まって声が出なかった。
あの子が、そんなことを――
「あっ、俺がバラしたってこと、あいつには黙っててね。あいつあんまり運転にうるさいから、なんでそんなに言うんだって俺もムリヤリ聞き出したからさ」
うん、うん、と首を縦に振る。
「あいつを信じてやって……とまでは言わないけど、疑う必要はないと思うよ」
「そうね……」
教えてくれてありがとう、となんとかお礼の言葉を発し、私は息子の友人と別れた。
私の知らない息子の一面、それは、母親思いの、とても優しい子だということだった。
母親としてそれに気付かないでいたのは、非常に情けない。
疑う必要はない――
そうね、あの子の友人が言うんだもの。
これから、あの子の色んな一面に気付いていけばいい。
「やだ、嬉しい……」
両手で頬を包む。唇の両端と左右の頬が上がるのを手のひらで感じる。
嬉しくて嬉しくて、今すぐあの子に母として何かしてあげたい。
あからさまなことをしては嫌がられる。
何をしたら……
「そうだ!」
私は家に戻り、サイフを持ってまた外へと出た。
「おい、今日の夕飯……」
息子が食卓に置かれた大きな丼をのぞいている。
「おうどんだけど?」
しかもあんたの大好きな太麺よ。
「見りゃわかる」
息子が丼の中を指差した。
「……またスーパーで安かったのか?」
息子の人差し指の先にあるのは、小口切りにしたネギと、細く刻んだ油揚げ。
そして、大量のなると。
本当は特売でも何でもない。
親ばかだけど――この子の気持ちが泣くほど嬉しかったから。お祝い……ってわけじゃないけど、あのときと同じ食事を作った。
1年前、この子がこの家を出ていくときに食べた、なるとが乗ったおうどんを。
なるとなんて普段私はあまり使わないのだけど、華やかだからお祝いにと思ってその日は乗せた。
それを息子が意外と喜んでいるように見えて、ずっと覚えていたのだ。
「伸びるから早く食べなさいよ」
「わかってるよ」
息子が両手で丼を持ち上げ、汁を一口すすった。
息子は、一口食べてそれが美味しかったとき、無意識に小さくうなずく癖がある。
「ふふ」
「なんだよ」
「なんでもないわよ」
今日のおうどんも、美味しかったらしい。
「ねえあんた、彼女いないの?」
私の爆弾投下に一瞬息子の箸が止まったが、
「……いたときもあったけど、今はいない」
意外と素直に答えてくれるんだなと感心する。
そういえばこの子は、私が質問したことにはそれなりに答えていた気がする。
まともに答えてくれないときもあるが、今思えばそれは――私がごちゃごちゃと決めつける言い方をしたときかも知れない。
「ねえねえ、なんであんた、部活行かなくなったの?」
「はっ? 何年前の話してんだよ」
「何年前だっけねぇ」
息子の箸が今度はしばらく止まる。
「……土日も部活あったし、朝早かったり夜遅かったりだし、遠征とか、用具とか、金もかかるから、辞めた」
それは――私への配慮なのだろう。
当時、朝練で早く出る食べ盛りの息子へ、昼のお弁当以外に、朝連と放課後の部活のあとで食べるおにぎりを毎日作っていた。
練習試合や大会には保護者が交替でつき、送迎などの世話をした。女手一つで息子を育てるために働いていたから、それらが苦にならないと言えば嘘になる。経済的にも、時間的にも。
「子供にそんなこと心配させてたなんて、私もまだまだねぇ」
「今頃気付いたか」
「今頃気付いたわ」
本当に、優しい子なのだと、今頃気付いた。
高校3年のとき、自動車学校に行かなかったのもきっと、同じ理由だろう。
でもそれを確かめる必要はない。
大事な一人息子の行動は気になって仕方がないが、何でもかんでもはっきりさせることだけが大事ではない気がする。
でももうひとつだけ、聞いてもいいだろうか。今ならすんなり聞けそうな気がするから。
「ねえねえ」
「何だよ」
「会社は、何で辞めたの?」
息子の箸が三度止まる。
「あんたなりの理由があったんでしょ?」
部活や自動車学校に行かない理由と同じではないはず。親の手はいらないし、お給料だってもらえたのだから。
「辞めた理由は、要するに、簡単に言うと……」
「うんうん」
「オレオレ詐欺とかで、母さんコロッとだまされて大金渡しそうだなって思ったから」
は?と口が開く。
「バカねえ、うちにそんな大金あるわけないでしょう」
「……わかってるよ」
息子が会社を辞めた理由の本当のところはよくわからないが、私なりに都合よく解釈をしてみると、離れて暮らす母親を色々と心配してくれたのだろう。そういうことにしておこう。
「ねえねえ、母さんのなるともあげるよ」
「いらねーよ、なるとばっかり乗せんじゃねえよ」
私のかわいい息子は、バカがつくほど優しいのだから。
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