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父のこと/命のこと

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2021年、コロナ禍に脳梗塞で逝った父のこと。いくつもの重い決断を迫られた、私たち家族のこと。その後の、日々の暮らしのこと。/父に限らず、命のことをテーマにした内容です
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#日記

あの結婚生活に「意味がある」としたならば

13年間の結婚生活。あれにはなんの意味があったのだろうかと、折に触れて考える。 ああそうか。 あのコロナ禍で、父を看取り、弔う。 そして母を支えること。 そのための準備期間だったのか。 夜中に病院へ駆けつけることも。 徹夜明けでオヅメガダ(※)に突入することも。 泣き崩れる家族の肩を抱くことも。 私は、初めてではないのだ。 13年間の結婚生活。 あれにはなんの意味があったのか。 そう。あれはきっと、次に来る運命の準備期間だったのだ。 ※オヅメガダ……亡くなってから

「#東北でよかった」を覚えていますか

私のパソコンに入っている、小説のネタメモや草稿を整理していたら、なつかしい文章が出てきた。どこに発信するでもなく、荒々しく、ただただ私の言葉を書き綴っただけのもの。 タイトルは「#東北でよかった」――あのときの私が、書かずにはいられなかった思いである。 世の中の皆さんは、「#東北でよかった」をまだ覚えているのだろうか。 元々は時の復興大臣が、震災の被害が「東北でよかった」と失言したことから始まった。 2017年4月25日のことである。 この出来事を受け、Twitterで

3月11日

2022年に書いたものですが。 「2011年」とか「3月11日」という日付を見ると、必ずあの日を思い出す。 「今日は黙祷の日ですね」 朝、職場で日付印の数字を合わせながら言う。 「ああ、そうだねぇ」 私は何度も転職しているから、そのたびにあの日あの時、みなさんがどうしていたかを知る機会に触れられた。 今朝もみんなで、あの日あの時、何をしていたかを語り合った。

おじいちゃんの日記

何年か前、実家の屋根裏で祖父の日記を見つけた。 私は祖父を知らない。 祖父はある朝、昏睡状態に陥っていて、意識が戻ることなく一年後に亡くなったと聞いている。 当時私は2歳。 遺影は白黒でピンボケ。 祖父についての記憶の断片はわずかにあるが、それが思い出なのか夢なのかもわからない。 祖父の日記―― 歴史家が古文書を発見したときは、こんなふうに高揚するのだろうか。『農業日記』と冠された分厚い日記帳。それが角を揃えて十冊ほど積まれていた。 人となりもまったく知らない私が、

昨夜、父に叱られた

昨日の夜、noteに日記を書いていてうっかり夜ふかしをしたわけだが。そのあと布団に入ったものの、アップした日記の文字の並びをスマホで確認しているうちに、そのままウトウトしてしまった。 手にはスマホを持って。 枕元では消し忘れた電気スタンドが、煌々と光を放っていた。 眠りに落ちることと、重いまぶたを開けてスマホ画面を見ることとを何度か繰り返していたとき―― ハッと目を覚ました。   * その話を、さっき夕ごはんを食べながら母に話した。 「そんどきね、……気味悪いって

その後のシルバーアウェアネスリボン

私は普段、シルバーのアウェアネスリボンを身につけている。その理由は以前書いたとおり。今でもその思いは変わっていない。 この日仕事を終えた私は、日用品を買うため、職場近くの店に寄った。 メモを見ながら目当ての物をカゴに集め、レジへ並ぶ。ちょっとだけ混んでいて、先頭にいるお客さん1は店員さんにお金を出そうとしている段階。そのあとに続くはずのお客さん2は、カウンターにカゴを置いて、どこかへ行っているもよう。私はその次に並ぶ、お客さん3である。 ほどなくお客さん2が戻ってきた。

父からの電話だったかもしれない

今の職場で働き始めてしばらく経った頃。 仕事中、知らないお客さんからの電話がかかってきた。 「はい、〇〇〇〇で……」 「あのよぉ! この、えーど、なんだ? 〇〇ってやづなんだけどよぉ!」 「はっ、はい!」 相手はおじさん。低い声でベダベダに訛って聞き取りづらい上に、ちょっと面倒くさい感じの絡み方。語気も強く、怖い人に思えて、ちょっと声が震える。 他の人に電話を代わってほしかったが、内容は私が答えられる程度のもの。震えを隠しながら対応に努める。 話の途中で、電話の向こう

店番のおじさんと父と私

職場の備品を買いに、商店街の小さな店を訪れた。 「こんにちはー」 誰もいない店内に声をかける。 商品を物色していると、奥の部屋から店の人がゆっくりと姿を見せた。 いつものように奥様が――と思ったら、この日現れたのは、おぼつかない足取りのおじさん。初めて見る。 「ごめんね、脳梗塞やってから足悪くなって。座らせてもらうね」 会計のとき、おじさんが領収書の綴りを出しながら弱い声で詫びた。 「あ、はい。どうぞどうぞ」 私はそれだけ言って、あとは黙ることにした。おじさんが領収書に、

供養のドッグフード

母が愛犬チイサイノ(日本スピッツ)との散歩中に、時々出会うご婦人がいる。とても朗らかな方で、合うたびにおしゃべりを楽しんでいた。 あちらも愛犬を連れていて、ここではクロちゃんと呼ぶことにする。 私もこのクロちゃんとは、オオキイノ(ゴールデンレトリバー)との散歩中に何度か会ったことがある。 しかしオス同士だからか、うちのオオキイノとは馬が合わないふうであった。うちのは(多分、遊んでほしくて)ギャンギャン吠えまくって執着していたが、クロちゃんはいつも見向きもせずに、颯爽と通

今年のツバメハイツは入居OKです

5月頃から、毎年恒例、ツバメたちが我が家の内部見学にやってくる。それは街なかでも同様で、もうじき地元の店先では、逆さに開いたカサが多数出現することだろう。 カサの上にはツバメの巣がある。ここのツバメ一家が旅立つまで、カサはひたすらフンを受け止め続けるのが仕事だ。その間地元の人たちはあたたかく見守る。 うちの親も小鳥が大好きで、かつてはツバメも毎年のように受け入れ、ヒナが巣立つまで、大切に見守ってきた。その証として我が家の車庫には、「ツバメハイツ」と呼ばれる歴代入居ツバメの

親の葬儀で後悔しないために決めておいたこと

2017年、祖母が他界したときにわかったことがある。残された者は、必ず後悔するということ。身近にいた者は特に。 正直私は祖母について、裁縫の腕は尊敬していたが、性格については「陰」の気質が強かったため、あまり好きではなかった(私と似た性格とも言える)。 それでも介護度がつき始めた頃から、母と二人で祖母のトイレの介助をしたし、要介護になってからはシモの世話もした。 とっても大好きな祖母で、だけど何もすることができずに逝ってしまった――というのなら、きっと後悔は大きいだろう。

一周忌の次の月命日

2ヶ月ほど前、母が 「一周忌すぎたら、あとは月命日にお墓行かなくてもいいかなって思うんだけど」 と相談してきた。 「いいと思うよ。一年間務めたし。お母さんがそういうふうに思えるってことは、気持ちの面でも区切りがついたんだろうし」 「んだよね、いいよね」 「いいよいいよ。――Nオバのアレは特別だから、あれは真似しなくていいよ」 Nオバというのは母の姉のことで、彼女は夫が亡くなったあと、よほど天候が悪くない限り月命日には必ずお墓へ行っていた。そのついでに、N家の親類のお墓も、

はたしてあの結婚生活は「ただの無駄な時間」だったか

時々思う。あの13年間の結婚生活は、私にとってただただ無駄な時間をすごしただけだったのだろうかと。何も得ずに終わったのかと。 否。何も得なかったわけではなかった。 そのことを、母が教えてくれた。 母に言われてわかったのだが、知らず知らずのうちに私は、葬儀や法事関連の作法をインストールしていたらしい。 実家で暮らし始めて、まもなく父を失い、コロナ禍で姉や親戚が来られない状況だったあの頃、それは効力を発揮していたのだろう。葬儀から数日後、私は母から感謝の言葉をかけられた。

8ヶ月前の「虫の知らせ」

「虫の知らせ」というものを、私は信じることにしている。それはラジオの周波数のようなもので、身内は周波数が似ているからキャッチしやすいのだ、という話を聞いたことがあるから。 それに、宇宙も含めこの世界というのは、あらゆる空間に素粒子が詰まっているらしい。だとしたらどこかで誰かに何か変化があったとき、素粒子が揺らぎ、波動のようなものを感じてもおかしくはないと思うから。 6年前、私と夫との関係に、大きな亀裂が入った。それから4年間、夫婦生活を続けてみたが――もう無理だ、私の心身