ルールを守る、について。2024/02/22

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いきなりですが、この世の中、この社会を健全に保つのは自由と秩序のバランスです。これは僕がこれまでに色んな社会思想や主義思想、17世紀18世紀の欧米諸国の社会情勢を独学なりにも学んできたこと、それに付随する哲学者や社会思想家の考えに触れてきたことから、自分の中では確固たる答えになっています。

それに加え、出光佐三さんの「社会というのは、2人以上の人が同時に同空間にある状態をいう」という定義。この定義があてはまる状態の空間では、この自由と秩序のバランスがいかに保たれているかが、その空間の質のようなものを決める、という考えです。

自由とは、秩序とは、そのバランスとは

自由と秩序についてもう少し紐解いてみます。
まず自由というのは、その空間内にある個人の欲がどれだけ保証されているか、承認されているかという基準によってみることが出来ます。人間は人それぞれこうしたい、ああしたい、という欲を、それぞれが異なる形で持ち合わせています。各個人のそのそれぞれに異なる欲を、どれだけその社会に保証され、それが周囲から承認されているか。これで、その空間に自由はあるか、は判断していけると言えます。
次に秩序についてですが、これは自由の行き過ぎを防ぐものです。全員が全員、それぞれが持つ欲を100%さらけ出してしまった場合、もちろんそれでも成り立つ社会もあるのかもしれませんが、それはよっぽど各個人の欲のベクトルが極めて同じ方向を向いていた場合に限ると思います。先ほども言いましたが、大抵の場合、各個人が持ち合わせる欲というのは異なります。そのため、それぞれが100%自分の欲を解放してしまった場合、社会はカオス状態になります。これはフランス革命がなぜかえって社会に混乱を招いたのかの話に通ずるのですが、これは今回は置いておきましょう。すなわち、秩序というのはある種での各個人が持つそれぞれの欲の妥協点を探し出し、そこで規制をかけることでいわゆる「自由すぎる状態」を防ぐための機能だということが出来ます。

簡単な例として、信号をあげましょう。
一般論ですが、道を走る車、歩く人は、誰でも「自分の目的地までは止まることなく進みたい」という欲があると思います。しかし、この欲になんの規制もかからなくなってしまった場合、社会はどうなるでしょうか。当然ですが、道路には複数の車、歩行者がいますね。そのすべてがこの欲に従い、無秩序に走っていたら。間違いなく事故が起きまくります。これが「自由すぎる状態」です。
それを防ぐために、信号という規制をかけた。これは社会の質を保つためにはかなり重要な発明だったといえます。それぞれの車、歩行者の「止まりたくない」という欲に対し、「これくらいだったら全体のために我慢してよ」と、それでも可能な限り早く進みたいという皆さんの欲は最大限達成させるために交通量とかも考えて、いい感じの時間設定で信号というルールを設定する。これにより、自由と秩序のバランスが保たれる、というわけです。

ルールはいかにして作られるのかへの理解

以上の信号のような例は山ほどあると思います。スーパーでレジの順番待ちをする、日本では電車内で通話はしない、ハンバーグのソースは1種類だけ、などなど。どれもすべては、社会における自由と秩序のバランスを保つためにあるきまりだと思います。

世の中にはこうしてそれはそれは色々なルールがあるわけですが、僕が大事だと思うことは、なんでそのルールがあるのか?をちゃんと考えることだと思っています。
ハンバーグ屋さんで、選べるソースはお1人様1種類のみになります、というルールがある場合、それを見て客が、なんで店はそんなルールを作っているんだろうか、ということを考えれば、ソース2つくれよ、なんていう発言には至らないと思うんですね。
ここには店と客という2つ以上の要素が同空間にあることから、社会が成立しています。つまり、店側の自由と客側の自由があるわけですね。店としては、何種類もソースを提供していては損をしてしまうからそれには制限をかけたいという欲があり、対して客には色々なソースで食べたいという欲があります。この相反する互いの自由が無秩序にぶつかり合うと、この社会は行き場を失います。
そこで店側は、この社会に秩序を生み出すための規制をかけることを考えるわけです。また、それを考える際には客側の自由をいかに保証するか、というところがポイントになるわけですが、少し話は変わりますが、ここでもう1つ、自由、すなわち客が持つ欲には階層があるということも理解しなくてはいけません。店側はここで、客がより優先している欲は、「ソースを複数種類選びたい」よりも、「おいしくハンバーグが食べたい」だという風に視点を変えるわけです。これが欲の階層における“最上位目標”という考え方なのですが、このケースにおいては客の最上位目標はソースの種類うんぬんではなく、おいしいハンバーグを食べたい、ですよね。そして店側としても、「ソースを複数楽しんで欲しい」よりも「おいしくハンバーグを食べて欲しい」の方が欲としての階層が上位にあるわけです。これが双方の最上位目標の一致です。
この視点の切り替えにより、ソースは1種類に限定するという規制をかけても、客の自由は保証されると判断できるようになるのです。ソースは1種類でも、十分にお客さんの最上位目標であるおいしくハンバーグを食べたいは達成されますので、すみませんがここは我々の損益のことを考えて1種類のみという形で妥協して頂けないでしょうか、というのが、この店がこのルールを設定した背景だと言えます。

適切なルールを作ることは、簡単そうに見えてかなり難しいことです。社会に存在するそれぞれの欲をすべて統合して、それらがしっかりと承認され、保証される形で規制をかけるというのは容易なことではありません。なので、ルールを守る側の人は、どのような背景でこのルールは作られたんだろうかということを理解しようとしなくてはいけません。なぜこの店はソースを1種類に決めて欲しいんだろうか、なぜこのスーパーはレジで順番待ちをして欲しいんだろうか、そういうことに配慮できるようになると、また1つ健全な社会を構成する一個人として成長出来ると思います。

ルールを守るということ

ここまできたら、ルールを守らないということがどれだけ愚かで、社会に害をもたらす行為であるかということは理解できると思います。自由と秩序のバランスが社会の質を決めるという考えの元、それを保つために適切なルールというのが存在し、それを守りながら生きていくことが健全な社会を育んでいくという風に考えられれば、ルールを自分勝手に破る、なんていう行為には至りません。

ただ、これは何も、なんでもかんでも決められたルールは守らなければいけないよ、ではありません。ちょっとそのルールはこっちの自由が脅かされすぎじゃない?というものには、ちゃんと声をあげるということはとても大切です。ここをしっかりするために、なぜそのルールはあるのか、どのようにしてこのルールは出来たのか、ということを批判的に考えていくことが重要なわけですね。
何度も言いますが、ルールは社会の自由と秩序のバランスを保つためのものです。そして社会とは、2人以上の個人が同時に同空間にある状態のことです。じゃあ、真夜中自分以外まわりにだれもいない、車もいない交差点で、赤信号で止まることは必要でしょうか。これは、そこに社会がないということから、その時点で自分の自由は何者にも脅かされないので、信号というルールは機能する必要がなくなるわけです。つまりこの場合、本質的には、信号は無視してもいいんです。と、僕は考えています。

しかし、じゃあ真夜中の誰もいないこの交差点で、奇声をあげることはどうかと言えば、これは近隣住民が関与してくるのでたちまちこれは社会における問題行為になります。こんな感じで、自分がいる空間が社会になった途端、ルールに対する意識は必要になるよね、ということなのです。

あと、自分1人くらいルールを破ったっていいでしょ、という考えも社会をダメにします。ルールというのはその社会に存在する全員が守ることを前提として作られているので、1人でもそれを蔑ろにした瞬間、秩序は崩壊します。そしてその秩序の崩壊は連鎖反応を起こすので、1人の行為が全体の自由と秩序のバランスを崩していく結果になるのです。

だから、健全な社会、それが大きくても小さくても、それを作ろうと思ったら、そこにいる全員が正しくあろうとすることはとても大事なことなのです。適切なルールを誰かがを破っているということを軽視する社会はすぐ崩壊します。そうならないために、罰という機能があるんだと思います。ルールを破ったということに対する罰、ということではなく、社会の秩序を脅かし、全体に悪影響を及ぼしたということに対する罰、です。

ルールを破るやつが許せない、というのは極めて正常な態度です。それを真面目すぎだとか、考えが固すぎだなどと揶揄する人は社会の本質が分かっていないか、自分以外も含めた全体に対して無関心かのどちらかです。正しくあるというのは体力も使いますが、人間である以上そこから目を背けてはいけませんね。

あと、「ルールを破っていなければ何をしてもいい」という考えも、これも本当に社会をダメにします。が、この話はまた今度にしましょう。笑


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