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翻訳者は、翻訳をしてはならない?:ベケットの『反古草紙』から考えること

【原語と作者の関係】


 ベケットの小説『反古草紙』(英題:Texts for Nothing)のタイトルを例に、翻訳について考えてみる。
 なお、仏題(textes pour rien)まで議論すると複雑になるため、英題に限定する。

 英語という言語の中では、"Texts for Nothing"は字面通りには「無のための文章」という意味だが、慣用的な用法がそれに従い、「無駄な文章」という意味が発生する。さらに噛み砕けば「無駄になった(反古)」と解釈されるだろう。

 そしておそらくベケットは、まず第一に「無駄な文章」という慣用的な用法を意図して題名を付与している。このとき「無のための文章」という字面通りの意味は慣用的な用法に従属するが、その字面通りの解釈も孕む多義性がこの題名の持つ深みであることは本文を読めば明らかである。
 ここで、英語の言語そのものにおける字面→慣用という転用関係が、作者ベケットによって、慣用→字面という転用関係に反転されていることに注意したい。慣用的な用法から字面そのものを意識させ、新たなコンテクストを生成すること。これは文学表現の本質的な使命だと言えそうである。

【翻訳の二つの方法】


 では、翻訳においてはどのような作業があるのか。翻訳者は「無駄な文章」という慣用的な用法を伝えることを優先し、「反古草紙」という訳語を考案した。ところがこの時、「反古」という語には「無のための」という英語における字面通りの意味が抜け落ちてしまっている。
 たまたま日本語に、字面通りには「無のための」であり、かつ、「無駄な」という慣用的な用法を持つ語彙が存在した場合は、おそらく翻訳者はその言葉を採用したであろう。しかし、翻訳者(と私)は適切な語彙を発見することはできなかったのである。字面通りの意味が欠落しているので、この訳語は不十分である。

 他にはどのような訳し方があり得るだろうか?簡単に思いつくのは、「フォーナッシング」と、英語発音をそのままカタカナで表すことである。
 ある程度英語学習を受けた日本語話者であれば、「無駄な」という慣用的用法が理解でき、同時に「ナッシング」つまり「無」という語彙も理解するため、作者ベケットの意図を理解することが可能となるだろう。

 さて、前者の「反古草紙」訳のような翻訳法を「コンテクスト重視訳法」とし、後者の「フォーナッシング」訳のような翻訳法を「原語重視訳法」と名づけてそれぞれの問題点を考えよう。

・コンテクスト重視訳法

 「コンテクスト重視訳法」は原語の字面よりも原語の慣用的な用法を重視することで、作者の主要な題意を伝えようとしているのであるが、先述の通りこの時、翻訳原語において、字面が原語と一致する言葉を見つけ出さなければならないのだから、この翻訳法は翻訳原語に依存しているということになる。
 「コンテクスト重視訳法」は翻訳言語に依存する。しかも、それが完全な訳であるためには、原語の字面→慣用という関係が、予め翻訳原語に用意されていなければならないのである。その合同関係の発見にのみ、翻訳者の創意はあるのだが、翻訳原語には新たな創発は生まれないということになる。

・原語重視訳法

 次に、「原語重視訳法」を考える。例えば、ジョイスの"Finnagans Wake"は、その意味のあまりの複層性のために、柳瀬尚紀によって『フィネガンズ・ウェイク』と訳された。
 このカタカナ語が理解されるためには、日本語という翻訳語が使用されるコンテクストに、英語の使用コンテクストを多分に導入しなければならない。その結果として、日本語という言語自体が拡張されるという意味では、このような訳は一見翻訳の放棄と取れるにもかかわらず、日本語にとってはかなり創発的な契機を与えるのである。

 しかし、「フォーナッシング」の話に戻ると、やはりこれはある程度、日本語が話される場において英語のコンテクストが理解され共有されているという条件が予め必要であるということは明らかである。
 つまり、「原語重視訳法」は翻訳言語におけるコンテクストに依存しているのである。これが成立するためには、原語の字面→慣用という関係が、予め翻訳言語のコンテクストに用意されていなければならないということになる。この時、翻訳者の創意は存在しないのではないか?

【翻訳者は、翻訳をしてはならない?】


 以上の議論をまとめると、「コンテクスト重視訳法」は、翻訳言語自体に依存し、「原語重視訳法」は翻訳する言語のコンテクストに依存しているということになる。前者は翻訳者の創意を求めるが、後者は翻訳者の創意を求めない。そして、翻訳者が創意を発揮する「コンテクスト重視訳法」では、予め用意された言葉を使うだけだから、翻訳言語に創発は起こらない。しかし「原語重視訳法」を採っても、予めコンテクストが翻訳原語の話者に共有されている場合は、創発は起こらない。

 翻訳可能な言葉は、翻訳「する」のではなく、翻訳がすでに「ある」に過ぎない。翻訳者は、翻訳をしていないのかもしれない。
 翻訳者が創意を発揮しない(翻訳を放棄する)「原語重視訳法」が、「フィネガンズ・ウェイク」のように、翻訳不可能な言葉をそのまま提示し、新たなコンテクストを生み出す時にのみ、翻訳言語に創発が起こるのである。

 だから翻訳者は、翻訳をしてはならない?

 もっとも、単純に「反古草紙」という語彙が日本語に増えたという意見もあるだろうが、これが翻訳の意義なのかは疑問が残る。 

 今回は、ベケットの『反古草紙』の題について考察したが、この観点はさらに広く翻訳という営みに応用できると考えられるから、また暇があれば考察しよう。


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