「教えること」を教えること。

ずっとこの題材で書きたくて、でもどうやって書こうか迷い続けていた。
迷っているうちに先延ばしになっては、また考え、そして先延ばしにする。
ズボラな僕らしく、随分と時間が経ってやっと今に至る。

教えるということの本質。

教えること。
うだうだと考えても仕方ないのでシンプルに。
教えることは、突き詰めれば”教わる”ことだ。
どんな時でも、教わることからしか教えるは始まらない。

そのことをまず知っている人が少ない。
”教えてやる”という上から目線では、相手が勝手に教わることはあっても、決して教えられている訳では無い。
本から必要な情報を探し出している時、本が教えているとは言わない。読み手が本から教わっているだけだ。
それと同じで、”教えてやる”と情報を垂れ流している人間からは、教わる能力を使って必要な情報を探すしかない。
それでは、教わる側の教わる能力の差異で何を得られたかが変わってしまう。
よく職人が言う、○○年修行が必要というのは、教えることてはなく、教わることが主になっているからこそ、非効率な伝達によって多くの時間を有する。

ちゃんと相手に”教える”事が出来ていれば、少なくとも、教えた相手ができないことを相手のせいにすることはなくなる。
教えた相手が向いてなくて出来ないか、自分の教え方がまだまだ未熟か。そのどちらかでしかないからだ。
相手がもし向いてなくて出来ないのなら、それを伝えてあげなければいけないし、自分が未熟なら相手に伝える伝え方を工夫しなければいけない。

つまり、”教える”ことはヒアリングに近く、相手のことを知ること、相手から相手のことを”教わる”ことが主軸になる。

相手から”教わる”ことも簡単ではない。

星野源さんの、”くせのうた”という曲の中で、

知りたいと思うには、全部違うと知ることだ。

という歌詞がある。
そもそも、相手のことを知ることさえ、そう簡単なことではない。
よく言われる常識や当たり前という価値観を持っている人は特に、教えることが不向きな人間だと僕は思う。
教える側になるには、あまりに通過するプロセス(工程)が多い。
固定観念を多く持っていればいるほど、相手のことを知るというのは難しい。

教え方を教える。

ここまで書いてきたことを理解して納得できる方であれば、きっと教えることはそんなに難しくない。
だが、そもそも”教える”ことを相手のせいにしてきた人間には、さぞかし受け入れ難い事実だろうと思う。
今まで相手のせいにしてきたことが、本当は自分が悪かったのかもしれないのだと、自分を1度見つめ直さなければいけない。
まさに、無知の知だ。正しいと信じて疑わないものよりも、疑問をいだける人間の方が賢い。
教えることの第1歩は、自分の無知の自覚、自分の弱さを認めることから始まる。

あなたは今まで人に何かを”教えてやった”という経験の中で、果たして本当に”教える”事ができていたのか?
もう一度思い出して、今回のことを踏まえた上で考えてみて欲しい。

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