年末感のなさは「振り返りトーク」をしないから?:今日と明日を分けるもの
今年はほんとうに年末感がありませんね。
まあそもそも「年末感」なるものが謎の概念ではあるんですけど、それでもなんとなく「ないよねー」と共感してしまうのではないでしょうか。
この「年末感の正体」とはなんなのでしょうか。そして、なぜそれを感じないのでしょうか。
今日は「年末感のなさ」について考えつつ、今年を振り返ってみたいと思います。
今日と明日をわけるものとは?
本当は12月といえばさまざま忘年会や人との集まりがあり、
「今年はどんな年だった?」
「いやー今年はこんな年だったよね」
「来年は何をやりたい?」
といった会話が自然となされます。ここでやっていることは、
今年の活動全般を「こういう年」と意味づけ、パッケージ化する作業
だと思います。
「パッケージ化」というのは、つまり「これは2020年のこと」で、「2021年のことは別のこと」という、境界と区切りをつけることです。
もっと簡単にいえば「今日と明日を分けること」ともいえます。
「年末」とか「年始」というのは、我々が勝手に決めたことで、カレンダーなどがなく、普通に朝起きて、外を見て「あっ、今日は年始だ!」と気づくことはできません。
「雪降ってる!」みたいな感覚で「年末」とか「年始」を目で見ることができないのですよね。
今年は「振り返りトーク」を通して、年末的な区切りを実感していく機会が少ないのが「年末感」を感じないひとつの理由なのではないでしょうか。
他者とともに区切りをつける「儀礼的」な体験
もちろん「個人で振り返りをする」とかはしている人はいると思うのですが、やはりこの区切りというのは、他者とともに、何度も繰り返すことで「ああ、ここが区切りなのだ」という実感をしていくのではないでしょうか。
すなわちこれはある種の「儀礼」なのだと思います。
その儀礼がないので、「変化の実感を得られない」という現象が起きているのではないかと考えています。
このあたりは研究的には儀礼論・祝祭論が詳しいところですね。
儀礼なき一年を過ごして
考えてみれば、コロナの影響を受けた今年は「儀礼なき一年」だったともいえるでしょう。
「やらなくても実務的な問題はないけれど、なにか実感が湧かずに気持ち悪い」
という感覚は、新社会人・大学生など新たなコミュニティに入る人は特に感じたでしょうし、それ以外でも多く起こったのではないかと思います。
儀礼や祭りは「不要不急」と捉えやすい部分があります。いわゆる「○○式」のようなものは、一見「形式的なもので、意味がない」と思われるケースもあるかもしれません。
しかし、これがなくなったときに、我々はなんともいえない気持ち悪さを感じることを社会的に実感したように思います。短期的には一見無駄で意味がないように見えるけれど、やはり意味があるのですよね。
来年はコロナがあけてくれることをまず祈りたいのですが、こうした儀礼のあり方も大きく変化していくのでしょうね。
・コロナが落ち着いたら、そのまま復活するもの
・一度なくしたことで「これもういらなくない?」となくなるもの
・もともとあったものが進化するもの
・これまでなかったけど新しく生まれるもの
いろいろなパターンがありそうです。
私は「お祭り」や「遊び」は人間にとって、とても大事なものだと思っています。そして個人的にも好きです。
なので、来年はプレイフルな一年になることを願いたいところです。
年末感がない年末ですが、SNSで振り返り記事を目にするというのも、新しい時代のひとつの「年末感の演出」なのかもしれませんね。
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