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「遊び」と「仕事」のどっちが大事?と問うてはいけない

「遊びが大事」みたいなことを最近毎日のように書いているのですが、そうすると「遊びって仕事に比べたら大事じゃないだろ」と思われるのではないかと思います。

これに対して「遊びの方が大事!」と主張することも大切とは思うのですが、ぼくはそれは本来的に「不利な勝負」だと思っています。なぜならそれは「仕事寄りの価値観」の土俵にのって、遊びの大事さを主張しなくてはならないからです。

例えば「遊びをしたほうが結果的に効率的だ」みたいなことも言えなくはないのですが、これは仕事で大事にされている価値観を前提にして、遊びの価値を訴えていますよね。それはそもそもおかしいことのように思います。

こうした「外部への説明責任」については、以前この記事で細かく書いたのですが、先日ある本を読んでいたら、わかりやすく説明されていたので紹介しましょう。

この本では「遊び」ではないのですが、「アート」「サイエンス」「クラフト」の3つを比較して論じています。まあ要は「外部への説明責任」だけで考えたら、絶対アートが負けるよという話です。

アートとサイエンスとクラフトをを横に三つ並べれば、アカウンタビリティの格差という問題が必ず発生し、アートは必ずサイエンスとクラフトに劣後することになる。一方で、サイエンスとクラフトに軸足をおいて、説明責任=アカウンタビリティを過剰に重視すれば、天才を組織に抱える余裕は失われ、組織は論理的かつ理性的に説明のできることのみに注力することになります。(中略)「アート」と「サイエンス」には「アカウンタビリティの格差」が生じますから、両者を同じ土俵で戦わせれば、必ず「アート」が破れ、「サイエンス」が勝つことになります。(p.65-66 世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 山口周)※太字は筆者が追記

この話は、「遊び」と「仕事」のどっちが大事?、ということと同じなのではと思います。この土俵にのせられたら絶対負けちゃうのです。

少し話はそれますが、これって最近流行りつつある「ワーケーション」(Work+Vacation)などの話も関連するのではと思います。せっかくワークとバケーションを合体させても、ワークの世界観や価値観で評価しようとすると、結局破綻するのではと思います。

じゃあどうするのってことですが、そもそも「遊び」と「仕事」のどっちが大事?というのは問わずに、どっちも大事であり、説明責任で勝負したら遊びが負けることを前提をすることがまず重要ではと思います。

その上で、単純な効率性や説明責任といった「説明可能性」で勝負せず、責任を持って進みたいビジョンに照らし合わせてリスクをとってアクションするということになるのかなと思います。

たぶん、こっちの方が大変ですよね。失敗をうやむやにできないですから。でもたぶんそういうことなのかと最近思っています。

もちろん「問題なく無難にやる」というのであれば、そんなリスクをとらなくてもいいでしょう。でもそれは結局結論の先延ばしになっちゃうだけなのでしょうね。



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