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「測定時代」の中で主観と論理をどのように取り扱うのか?

先日こちらの本を読みました。

本書はタイトルの通り「測定」の取扱注意な側面について書いた本です。ポイントとなりそうな部分を軽く引用してみましょう。

本文で見ていくが、適切に使用すれば、測定は有益になり得る。透明性も同様だ。だがそれらはゆがめられたり、脱線させたり、押しのけたり、焦点をずらしたり、やる気を削いだりもする。私たちは測定の時代に生きる宿命にあるが、同時に測定ミス、過剰測定、誤解を招く測定、非生産的な測定の時代にも生きている。(太字は筆者)

教育業界ももちろん「測定の時代を生きる宿命」にあります。本書のなかでも教育分野における「測定」の章が1章もうけられており、なるほどと思う部分もいろいろとありました。

私自身の意見は、この書籍の筆者とそれほど変わらないというかんじでしょうか。

「測定」はしないより、した方が効果があります。「なにも測定しなくて良い」ということはありません。データをとることで新しく見えてくることはたくさんあります。しかし、測定の重要度をあまりに高くして業績の評価基準にしてしまったり、何を測定しているのかに自覚的にならないと、自分たちで自分の首を絞めることになります。

本書で紹介されているように、「測定と説明責任」というのは、それ自体が強い目的になりえてしまいます。「数字があっていればそれでよい」という、数字あわせのむなしい世界観に陥る可能性があります。

おそらく、最近経営に関する書籍で「アート的な考え方が大事だ」と言われたり、「自分の内側からでてくるアイデアを大事にしよう」と言われることは、こうしたある種のデータに基づいた意思決定に対するカウンターともいえるのではないでしょうか。

しかし、これらは、主観・直感が大事なのか、データ・ロジックが大事なのか、という二者択一の問題ではありません。結局は両方必要になるのですが、これらを絶妙なバランスでハンドリングするというのは本当に難しいことのように思います。

そして、いずれにせよ、未来に対する答えはどちらも教えてくれるものではありません。

結局最終的には「自分で未来に向かってアクションすることができるのか?その責任を自分でしっかり抱えられるのか?」を問われているだけともいえるかもしれません。

「一番大切だと思うことを決断して行動し続けること」、まあ結局これに尽きるのかなとも思ったりします。楽なルートはないよってことでしょうかね。

直感と論理の関係について、佐宗さんのこの本でも取り扱われています。


こちらの書籍の中にも「あえてお客様の声を聴かずに、自分の内側で勝負する」という話が紹介されていて興味部深かったです。

まあ結局、両方を取り扱えるようになることが大事ってことで、求められているものがまたひとつ高次になっているだけともいえるかもしれませんね。

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