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NHKスペシャル「夢見た国で ~技能実習生が見たニッポン~」

日曜の夜、サンデースポーツを見るために付けたテレビで直前のNスペのラストシーンを見た。ベトナムからやってきた女性が真っすぐにカメラを見つめて話していた。

「今は日本は大好きです。実習生は日本に貢献していますから差別しないでほしい」

NHKスペシャル「夢見た国で ~技能実習生が見たニッポン~」。
何か、とても切実な番組であるように思えた。

翌日の夜。NHKプラスでもう一度最初から見た。
番組の冒頭もその女性の訴えから始まっていた。

「私はティエン。技能実習生です。日本は文明国、先進国で法律もちゃんといている。日本に行ける日が待ち遠しくて、ワクワクしていました。どうしても日本で技能を身につけたかった」

カメラを正面から見据えた画角でのインタビュー。ケン・ローチ曰く、どのカメラでどうやって被写体を写すかは、制作者の「目線」そのものだ。
ベトナムからの技能実習生。日本社会の中で「見えない存在」とされてきた彼女、彼らに真正面から向き合う。そんな覚悟のようなものが伝わってくる。

コロナ前からの継続取材。取材者は現場に張り込んで、実習生を雇う側の嘘を実証し突きつける。そして伝えられる奴隷労働のような実態。そして安い労働力に依存しなければならない日本の製造業の現状。

取材者の目線はさらに、そういった非人間的な労働の上に成立している私たちの社会や消費生活。見て見ぬふりをして生きている無数の私たちに向けられている。「お前らはそれでいいのか」と、言われている気がした。
技能実習生のベトナム人と、正面から向き合っているように思えたカメラ。
しかし取材者はむしろベトナムの人たちの後に立っているようにも感じた。

「その問題は知っているし、もう何度も取り上げられている。
 どこが新しいの?」
社会問題を番組として伝える時に、そんな問いを突きつけられることがある。いや問題が問題として存在するんだから、何度でもやればいいじゃないか。そんな気持ちになることもあるけれど、無視することもできない。

社会問題を取り上げる時、どうしても取材者が「正義の側」に立ってしまう事があり、その事が客観性や説得力を失わせることがある。
そういった事を避けるために、あえて懐疑的な視点が投げかけられる。
(ただ単に、視聴率のことを考えている場合もあるけれど)

番組の中盤、そんな問いに応えるように、技能実習生にまつわる新たな事態が次々と伝えられる。コロナによる解雇の続出。その結果、彼らの在留資格に関する扱いが変更され、技能実習生がある程度自由に職を選べるようになったこと。

さらにそのことによって流動化がおき、保険などに守られなくなり、またブローカーのような存在(元実習生もいる)が暗躍し、技能実習生が浮遊した状態になっている現実。僕は知ってるようなつもりで何も知らなかった。悲惨な現実への驚きで見始めた序盤から、新たな状況への好奇心につながっていく流れは、関心を途絶えさせない効果を生んでいた。

しかし番組の出発点であるだろう「現状への怒り」は少しだけ薄れていく。
新たな状況に驚かされながら、僕はその問題をどのように受け止めればいいのかが、少しわからなくもなっていた。
全ての根本には、日本社会が都合の良い労働力を欲したということがあるのだけれど、在留資格を自ら変えたことによって保険を失い、難病の治療費が払えない男性に対して僕らは罪の意識をどれくらい感じるべきなのか。そんな思いにかられたのも事実だ。
少なくとも自分は恵まれた場所にいるのだから、目を背けてはいけない。
僕は自分に対してそう思うけど、それを多くの人に強制することも難しい。

現在の難しさは、多くの人が「それどころじゃない」状態におかれていること。自分の周りにはコロナの問題があり、貧困や格差の問題もある。
世界にはウクライナの問題があり、シリアがあり、ミャンマーやチベットだって放ってはおけない。地球温暖化だって深刻だ。でも、そのすべてに自分の共感や関心を振り向けていくことは、現実には困難だ。多くの人が生きていくのに精一杯な今、何かに苦しむものとして、異なる状況で苦しむ人たちと共感しあって前に進むことができればいい。それは本当にそう思うけど。

少しモヤモヤした思いも抱えながら見ていくと、気になる場面があった。
難病に苦しむ実習生に仕送りを送るベトナムの母との電話のシーン。
電話の先で息子への心配を訴える母に対して、少し苛立ったように「もう切るよ」と伝える若者。心配する母親に対しての態度は、ともすれば印象を悪くするかもしれないシーン。しかしどこか心に引っかかった。

少しして気づく。自分は「技能実習生の現実」を伝える番組において、その人やそのシーンをチョイスすることが少しふさわしくないのではないかと考えていたことに。そして、その考えの傲慢さに。

人を、人間として見ないこと。ある種の機能や「人材」として見ること。
その最悪な形が技能実習生を取り巻く制度や、彼らを食い物とするような社会にあるとするならば、僕らの中にも、その考え方の根はあるのかもしれない。例えば、取材対象を番組の中での「役割」として考える思考の中にも。そんなことを気付かされた。

考えは少し飛躍する。
僕らはウクライナの兵士や家族の苦しみには寄り添えるけど、
ロシアの兵士やその家族には寄り添えない気がする。それはなぜか、そしてそれは正当なのかと考えてきた。その人の属性や状況を越えて、人間と人間として共感することは、本当に不可能なのか、と。

色々なことを考えさせられた。番組は再び、ティエンさんがカメラに向けて語るラストシーンに戻ってくる。色々な状況を理解した上で語られる言葉は、さらに複雑に響く。

「今は日本は大好きです。実習生は日本に貢献していますから差別しないでほしい」

それはケン・ローチの「私は、ダニエル・ブレイク」を彷彿とさせた。
得られるべき支えを受けられずに亡くなった主人公ダニエルの遺言のようなメッセージで映画は終わる。

「私は依頼人でも顧客でもユーザーでもない。怠け者でも、たかり屋でも、物乞いでも泥棒でもない。きちんと税金を払ってきた。それを誇りに思ってる。地位の高い者には媚びないが、隣人には手を貸す。施しは要らない。
 
私はダニエル・ブレイク。人間だ。犬ではない。
当たり前の権利を要求する。敬意ある態度というものを。
 
私はダニエル・ブレイク。1人の市民だ。それ以上でも以下でもない」

(私は、ダニエル・ブレイク)

力強い番組だった。

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