見出し画像

#3 『文化人類学の思考法』 で思考のギアアップ

この本は13名の文化人類学者による共著となります。文化人類学的な考え方を分かりやすくまとめてくれています。この本を通じて私が学んだ(メモした箇所)の一部を書き出してみます。

(松村・中川・石井 2019)

文化人類学者は他者の文化をつくりだしながら、同時に自身の文化をつくりだしている。

(ワグナー 2000)

ワグナーは参与観察やフィールドワークにより他文化を知ろうとするプロセスの中で、研究者自身の"自文化"を発見すると指摘しています。"自文化"がなければ相対的に比較する"他文化"を認識する事も出来ず、"他文化"に飲み込まれてしまう。文化人類学者は"自文化"と"他文化"の世界を自由に行き来できる必要性があると主張しているのだと思います。

人を「道具を作る動物」と呼んだのは、アメリカ合衆国建国の父とも言われる、ベンジャミン・フランクリンである。フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、ここからさらに、人間的な知性の定義の中心に道具の製作を位置付けた。

(ベルクソン 2010)

モノと芸術 ー 人はなぜ美しさを感じるのか

(作:渡辺 文)

これはとても面白い(私が好きな)視点です。

西洋芸術の鑑賞態度とは、美しさを判断する態度であるべきで、たとえば「これは使えるか使えないか」といった実用性にもとづく判断を芸術に用いるのは不適切とされてきた。逆にいえば、美しさ以外の価値に重きがおかれる工芸のような生活品は、芸術とか一線を画すべきだという見方があった。

(渡辺 2019)

ある面白い事例が紹介されています。2016年の5月にサンフランシスコ現代美術館の床の上に、突如なんの変哲もないメガネが無作為に配置されました。美術館を訪れる人びとはそこにあるものには「芸術的な価値」が存在するものだと連想するでしょう。人びとはなんとか作品の意味を理解しようと、もがく様子を多くのメディアが伝え、話題になったそうです。

後からわかったことは、これは二人の若者による"イタズラ"だったという事です。社会実験といって良い、面白い試みだと思います。

この行為により、言葉で定義されてきた芸術とモノの境界線が崩れました。

つまり、実用目的で着用しているメガネ自体は芸術ではないが、それをいったん美術館に並べることに成功し、作品としての意味を歴史や理論にのっとって説明し、人びとをまきこむことができたのなら、まったく同じそのメガネは芸術としての《メガネ》になるのである。

(渡辺 2019)

子どもと大人 ー 私たちの来し方、行く先を見つめなおす

(作:高田 明)

私の興味分野である「教育人類学」にヒントを与えてくれた寄稿文です。私自身小学3年生と1年生(2023年時点)の2人の男の子どもがいます。家族とはいえ、私は群馬の田舎生まれ、彼らは東京の都会生まれです。そしてインターネットが普及したのは私が大学生の頃で、彼らは生まれた時からインターネットへ接続している。姓や遺伝子の一部を共有しているということ以外、価値観は異なる人間だと考えます。

親と子の関係が時代や地域によってさまざまな形態をとりうること自体は、文化人類学がくり返してきたことである。

(高田 2019)

極端な例を引用してみます。

狩猟採取時代の社会では、乳幼児死亡率が非常に高いことなどを背景として、子どもは誕生後しばらくのあいだ、人格をもった存在としては扱われず、母親が必要と認めたときは嬰児殺しも行われていたという。

(Howell 1979)

今私たちが生きている時代では考えられない悪行ですが、当時の時代背景や社会構造を考えるとそれは悪意を持って行われていた訳ではなく、当時の常識だった事が想像できます。

19世紀に入るとイマと近い家族感が形成されます。

日本では、妊娠、出産、授乳といった女性の「母たるべき機能」と「本性」を結びつけた「母性」という翻訳語が1910年-1920年ごろに登場し、さらにこれが人間性を強要する「愛」と結びつけられることによって、急速に人びとの支持を得ていった。それとともに、「母性愛」の重要性を説く育児の専門家が現れ、子どもは母親によって保護、管理されるべきだと見方が強まったようである。

(沢山 2013)

そして、今を生きる我々にとってはまた新しい子どもと大人の関係性が構築されつつあります。少子化、国際化、ダイバーシティー、インクルージョン、母子家庭、選挙権年齢の引き下げ などなど。様々な点で子どもと大人の境界線が変わろうとしている。
そんな中、子どもの「教育」を「文化人類学」的に紐解く「教育人類学」の重要性が高まる事が考えられます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?