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はじめに

元日本代表男子バレーボール監督の植田辰哉です。

私は、昭和、平成、令和とそれぞれの時代の中で、バレーボールという競技を通じ多くの指導者 から 教育を受け、成長させていただきました。

特に大きな影響を受けた指導者は、高校時代の監督であった上野尚志先生でした。

バレーボールの基礎や、体力強化の重要性、人間性の大切さなど様々な 事を 細かく教えていただきました。実際に、 上野 先生に教わった大阪商業大学付属高校(当時名称)の卒業生には、柳本晶一氏(元 オリンピック 日本代表女子監督)や眞鍋 政義 氏(元 オリンピック 日本代表女子監督)をはじめ、多くの指導者が名を連ねています。 

当時上野先生に言われた言葉の中で最も心に残っている言葉は、「人間関係を大切しろ」「自分をさらけ出せ」「困ったときは、最後の 1 円まで隠し事をせず、惜しまず出 せる 人 であれ。 ポケットの中にこっそり帰りの
電車代を残すような男になるな」 「驕るな」 といった言葉です。


過去に日本は オリンピックで金メダルを獲得 する等、世界をリー ドしていました。 1970年代後半から、 1980 年代前半は、日本の指導者が ブラジルやロシア(当時ソビエト)等、海外に出向き、日本の技術を世界に伝えました。

 中学生だった私は、 日本国内においても、日本代表の技術や戦術、トレーニング方法が日本全国で共通した考えの基に広まっていたと記憶しています。 中学の練習の際、私は、 回転ボールやフライングなど、日本代表の真似をした記憶があります。

しかし、1990 年代から日本は男女とも世界で勝つことが難しくなっています。特に男子は 1992 年のバルセロナオリンピック以降 2008 の北京 オリンピックまでの 16 年 間出場を逃してきました 。 

数多くのブラジル男子代表金メダリストを育成したアントニオマルコス氏はこう語ります。

「昔は日本から様々な事を学びました、そしてブラジルは世界一になりました。しかし現在日本は世界から 30 年遅れてしまいました 。」

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(写真は早稲田大学大学院での研究時、アントニオマルコス氏とテレビ電話でブラジルからヒヤリング中のもの)


近年、体罰問題や指導者の資質について、マスコミでも大きく取り上げられることがあります。

自分のチーム(国内)が勝てばいい。日本一になる事だけ考えればいいと いった、ベクトルが国内に向いた指導が多く感じます。ベクトルを世界に向けているブラジルなど強豪国に伍していくためには、我々も外( 世界)にベクトルを向けなければなりません。勿論、 皆が日本代表を目指すわけではありません。 

私はこれまでの経験を基に、子供から大人までたくさんの方と語り合い、 お互いに 発信しながら、チームジャパンを築き上げていきたいと考えています。

そして、何を求めているのか。 求められる 指導とはどのようなものなのかを考えていきたいと思っています。 そして、もう一度 日本の指導 が世界一の指導と評価される 機会 となるように したいと思っています。


植田辰哉
1992年バルセロナオリンピックに主将として出場。率先垂範型の主将として、当時の大古監督(ミュンヘンオリンピック金メダリスト)に対しても 直接 意見を言うなど責任感の強い主将 として選手からの人望が厚く 、歴代 NO1 の主将だ(松平康隆当時会長)と評価された。

その後は新日鐵(現堺ブレイザーズ)監督、日本代表ジュニアチーム監督を歴任し、2005年から 2012 年まで日本代表監督を務めた。その間の主な戦歴は、 2005 年アジア選手権優勝( 10 年ぶ り) 2006 年世界選手権ベスト8( 24 年ぶり) 2008 年北京オリンピック出場( 16年ぶり) 2010 年アジア大会金メダル獲得( 10 年ぶり)などがある。

その後、社会人としての経験を積むために、バレーボール界から離れることを決意し、新日鐵住金(現、日本製鐵)に復職し主幹として 3 年間業務に専念。自らの人生の可能性について考えた後、まだまだ学びたいと決意し、 2018 年 3 月に新日鐵住金(現、日本製鐵)を退社。早稲田大学大学院に入学、スポーツ科学を選考し修士課程を取得した。

現在は、母校の大阪商業大学公共学部教授として、一般学生に指導している。

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