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鋼鉄天使

鋼鉄天使


 
 深夜。カリーネウ軍は拠点としているカルミウス製鉄所から密かに出撃した。前方に広がる集合住宅の群れの彼方には、シアスール軍が陣取っている。今は暗闇で見えないが、昼間になれば炎に焼かれ、穴が空き、外壁が崩れた住宅たちがその骸のような姿を晒す。それが果てもなく続く。死の街。色が消え、骸骨のようになった街。焼けて煤けた、単色の、灰色の街。夜の闇は束の間、その遺骸に覆いを掛けてくれる。戦車の隊は、その中を進むのだ。街をこんなにした、ごろつきどもを撃破すべく。よくも、やってくれたな、…という思いを腹の底に押し込めて。携行戦車砲を構え、特徴的な丸い砲塔を前方に向けたカリーネウ軍の主力戦車T-720。隠忍自重、低車高形態で黙々と進む。補給が無い中、昼間の猛攻を耐え凌ぎ、固く守った。そして敵の寝首を掻くべく、今まさに行動を起こしたのだ。起死回生の一手。このままでは敵軍に飲み込まれてしまう恐怖。しかし、この地を守り切らなければ。敵は、祖国へ、怒涛のようになだれ込んでくる。それは絶対に阻止しなければならない。その一心で、隊は文字通り、決死の覚悟。頑強な敵軍に穴を開け、突き崩すことを目標としていた。
 進軍は順調に進む。もう少しだ。もう少しでシアスール軍に襲い掛かり、息の根を止めてやる。はやる心を抑えるのに苦労し出した瞬間。警戒警報が戦車の操縦席のパネルに表示された。インターカムからの警報音が耳を突いた。同時に、先頭車両の側面が爆発した。
「隊長!敵です!」
「散開!応戦しろ!」
「ちくしょう!どうして!」
「わめくな!地物の陰へ!」
側面からの待ち伏せ攻撃。追い討ちをかけるような情報がインターカムから飛び込んだ。
「後方からもだ!挟まれる!」
「しんがりがやられた!歩兵が危ない!」
味方の声をかき消すように、敵戦車の砲弾が狙いを定めて飛んできた。焼夷徹甲弾が集合住宅の壁に命中した。闇の中に紅蓮の炎が上がる。カリーネウ軍はシアスール軍を襲う前に、逆にシアスール軍によって狭い集合住宅街に押し込められた。包囲されてしまったのだ。
 もう、なすすべはない。袋叩きにされて、擦り潰される。部下の戦車が腕を吹き飛ばされる。暗視装置の中に、忌まわしいシアスール軍の戦車が浮かび上がる。T-820。通りの向こう、こんなに近くで。隊長自らが叩き潰して擱座した敵戦車の向こうから、新手がこちらを狙ってくる。味方は必死で応戦している。だが、多勢に無勢、全滅は時間の問題だ。喚き声と悲鳴と爆発音とが滅烈に混乱して飛び交う。そんな中、隊長は自車がロックオンされた警報をインターカムから聞く。せめて刺し違えんと、暗視装置の向こうの敵戦車を睨みつけた。同時に動力値を最大にして、突撃を試みる。
 しかし、地獄へ道連れにしようとしていた敵は突然、爆発した。暗視装置の中の戦車の形が消える。モニターが真っ白になり、一時視認不能に陥る。画像が再び見られるようになると、そこにはもう敵の姿はなかった。どころか、自分達をじわじわと締め殺そうとしていた圧力が消えている。砲声は聞こえるものの、それは自分達の隊に向けられたものではないことが聞き取れる。
「状況知らせ!大丈夫か!」
インターカムに緊迫した声が流れた。
「だ、大丈夫だ!」
言いながらも、隊長はそれだけ絞り出すのがやっとだった。あと少しで全滅だったという恐怖のせいもある。だが、交信相手の、およそ戦場には似つかわしくない声の方が大きな原因だ。頭の中に疑問符が明滅して発話を妨げたのだ。
 
その声は、どう聞いても、十代くらいの子供のものだった。
それも、女の子の…。
 
「増援部隊よりカルミウス大隊へ。合流する。撃つな!」
ほぼ砲声が収まり、灯火管制が解除された。不可解な声の主が乗っていると思われる戦車が、前照灯を点灯させた。その車体が、狭い横丁から、カリーネウ軍カルミウス大隊戦車部隊がへたり込んでいる集合住宅街の大通りへゆっくりと出てきた。隊長車の前照灯に浮かび上がったそれは、直線と曲線で巧みに構成された、見慣れない輪郭を持つ戦車だった。
(これは…確か、78式)
驚きをもって見る隊長の操縦席モニターに映ったその戦車には、しかしカリーネウの国章と、何かの図像が描かれていた。カメラで捉え、拡大映像を表示させる。剣を構え、背中の翼を広げた人物像が現れる。それが映った隊長の目には、思わず涙が滲んだ。
 
 それは、大天使、聖ミカエル。
 祖国カリーネウの、守護天使。
 
「遅れてすまない。こちらへ急行していたんだが、鉄道や橋が分断されていて手間取って」
「ああ…ああ、やっと、揃ってきたんだな。各国からの」
現時点で世界最高のロボット技術の粋を集めて造り上げられたと伝えられる、日本軍の最新鋭装備である78式戦車。それにつづき、ドイツ軍をはじめとするヨーロッパ各国が配備する精強戦車レオパルトIII。イギリス軍が全幅の信頼を置く制式主力戦車エクスカリバー。アメリカ陸軍の誇るマッチョでタフな歴戦の強者MBT、M2シュワルツコフ。それらが続々と姿を現した。それが皆、カリーネウの国章を誇らしげに飾り、大天使ミカエルを宿している。隊長は声が詰まった。インターカムから、涼しげなかわいらしい声で武骨な報告が流れた。
「これより本増援部隊はカルミウス大隊の指揮下に入る。隊長、よろしいか」
「か、歓迎する!よく来てくれた!」
鼻を啜る水っぽい声を出すわけにはいかない。隊長は下腹に力を入れて応答した。
 
 戦車部隊の後方、歩兵戦闘車の部隊。ここにも、甚大な被害が発生していた。シアスール軍の不意の待ち伏せ攻撃が始まった時点で、大部分の歩兵は下車することができなかった。やむを得ずそのまま乗車戦闘で応戦し、中には命中弾を受けてしまったものもあったからだ。そのため、援軍がシアスール軍を撃退して、脅威が去った後も混乱が続いていた。
 その様子を、無人の集合住宅の陰から皮肉な笑みを浮かべて眺めている兵士がいた。丸いヘルメットに丸眼鏡状のゴーグル、突き出た上顎切歯が目立つ。カリーネウ軍制式戦闘装甲服に小銃という出立ち。兵士は、自らの一番近くに停車している歩兵戦闘車を注視した。負傷者を搬送し、連絡をするために駆け回る兵士達がその車の周りからいなくなるのを見計らう。一呼吸おいて、足音をひそめるようにしてその歩兵戦闘車にまで辿り着いた。その後は、何食わぬ顔をして部隊のなかに紛れ込んだ。
 

 
 カルミウスの街。比較的平穏な中心部の商店街。通りに面した雑貨屋では、昨日の戦闘で敵を撃退した増援部隊のニュースがレジの後ろのテレビから流れていた。レジの中では、そのニュースを大柄で筋骨逞しい男が店番をしながら見入っていた。そこへお客が入ってきた。店番の男、ニイノはテレビから何の気なしに振り向いて、少し驚いた。いい加減に向けた一瞥でぼんやり捉えた第一画像は小柄な少女のようだった。注意が増幅して、対象をはっきり捉える意識が働いた網膜に映ったのは、義足。骨格が剥き出しの鋼管製で、それに小さな車輪が、片足につき前後二つずつ付いている。腕まくりした軍衣を羽織っているが、そこから覗く両腕も細い鋼管の義手。黒い革手袋をはめている。すこし開いた軍衣の胸元には、平滑な金属板が見える。しかし、その上には、無造作でぶっきらぼうな義手義足にはまったく不釣り合いな、美しく整った可憐な少女の顔が載っていた。おかっぱ髪に縁取られている。目が離せないでいるニイノの視線があるのに、機械の少女は全く無頓着のようだった。彼女はふいと左に曲がると、店内の奥の方に向かってゆく。レジからは棚に遮られてその体は見えなくなった。車輪を駆動するモータ音だけがかすかに聞こえてくる。
 ニイノの店の外の通りには、戦闘が落ち着いている合間に、街の人たちが買い物に訪れていた。露天で商売をする人も、そぞろ歩いて品定めをする人も、努めて平静を装っているように見える。一皮捲れば、誰も彼も心の中は不安で渦巻いていることだろう。だが、恐慌に陥ったら、取り乱したら、敵の思う壺だと、決して屈しないと、言い聞かせるかのように、いつものように、いつも通りにと、振る舞っている。時折、動画の画像が荒れるような、心のぶれを絶えず抑え込むように。
 戦争さえなければ、のんびりしたうららかな光景だ。薄陽の中、商店街の歩道には、思い思いの露天が軒を連ね、いろいろなものを売っていた。日用雑貨だったり、飲み物だったり、あるいは活きのいい魚だったり。戦争さえなければ、とても楽しい風景なのに。
 揚げパンを売っている露天で、ショールを被ったお婆さんが地元の人と思われる初老の男性に応対していた。男性は二つ三つ気に入ったパンを見繕う。お婆さんのところに持ってゆき、勘定を支払った。顔見知りなのか、少し世間話を始めた。談笑がおこり、そのまま男性はお婆さんの露店を離れようとした。だが、行く先に目を向けた途端、向こうからやってくる一団に気押されて動けなくなった。黒っぽい煤けた男たちが、街の人たちを遠ざける空間を作りながらこちらへ向かってくる。まるでその周り数メートルに見えない邪悪な力でもあるかのように。初老の男性もその力の影響で、自分の向かいたい方向とは逆の方向へ体を下げざるを得なかった。なぜなら、軍服姿のその輩は、自分達を守ってくれる軍隊が醸し出すはずの頼もしさとは、およそかけ離れた雰囲気をこちらによこすからだ。小銃を下げ、目を合わそうものなら何をされるかわからない危険さを放っている。逃げたい気持ちと、しかしあからさまにその行動をおこすと相手を刺激するかもしれないという焦りとの妥協点で、初老の男性はお婆さんの露店の横に立ちすくんだ。軍服姿の男たちは初老の男性のことなどまるで気にもとめないかのように、露天に近づいた。その中の一人が並べてあるパンを無造作にまとめてつかんだ。そして、いきなりパンに噛み付いて咀嚼を始めた。丸いヘルメットの下の黒メガネのようなゴーグルのために目の表情を窺うことはできない。ただパンを噛みちぎる出っぱった前歯が蠢くさまを、初老の男性は見ていることしかできない。男たちは次々に手を伸ばして貪り、そのまま行こうとした。あわてたお婆さんはパンの数を数えるように露店の上にきょろきょろと視線を走らせ、うわずった声を必死で絞り出した。
「ひ、一つ30、ヴリフニャ、です」
「あ?」
一団の最後尾の男が振り返った。
「なんだって?」
先頭の出っ歯の男も振り返った。全員がぞろぞろとお婆さんのところに大儀そうに足をすすめる。
 礼儀正しくもなく、紳士的でもない男たちに取り囲まれたお婆さんは、それでも、締め付けられそうになる喉を押し広げるようにして、声を出した。
「お勘定を」
言い終わったか終わらないかで露店の板が台から跳ね上がって吹っ飛んだ。陳列されていたパンが舞い上がって落下し、散乱した。
「金払えだと?誰のおかげで生きてられんだ?え?」
露店を蹴り上げて台無しにした足を戻して、出っ歯の男がお婆さんに凄んだ。危険を感じた初老の男性が、抜けそうになる膝に無理やり力を込めてお婆さんと男たちとの間に割って入ろうとした。
「ま、ま、ら、乱暴は、この人だって生活が」
今度も言葉での返答ではなかった。初老の男性は頬に拳固をくらってよろめいた。間髪を入れない足払いをかけられ転倒した。
「ざけんなコラ」
男たちは面白がるように、地面に丸くなって縮こまる初老の男性に蹴りを入れた。恐怖と悔しさで泣くお婆さんの目の前で、ごろつきたちは路面に散乱したパンを踏みつけ去っていった。
 
 ニイノの店では機械の少女が品定めをしていた。飲料のショウケースからトマトジュースの缶を一本取る。パンが並ぶ棚からはクロワッサンを一個持ってレジに向かった。
「いらっしゃい。」
「……」
少女は黙ったまま持ってきた商品をレジの上に置いた。
「55ヴリフニャよ。」
ニイノが言った。少女は黒革の手袋がはまった義手を軍衣のポケットに突っ込んだ。ボタン留めの小銭入れを取り出す。義手であることを感じさせない滑らかさでそれを開けて硬貨をいくつかつまむと、レジの上のトレーに静かに置いた。
「ありがと。袋はいる?」
硬貨を受け取って、年季の入ったレジスターの引き出しに入れたニイノがレシートを渡しながら聞いた。少女はかすかに頷いた。
「じゃあ、この紙袋に入れてあげ」
突然の大きな音に、商品を手に取ったままニイノは思わず入口の方を向いた。全体的に黒っぽい、薄汚さの塊のような一団が、突き破るようにガラスドアを押し開けたところだった。不快な靴音を鳴らしながら店に入ってくる。
「ああ、ちょっ…!」
ニイノが何か言いかける前に、だらしなく軍服を着た男たちは、店の商品を乱暴に手に取った。気に入らないものがあると棚に戻さずそのまま床に投げ捨てる。腕に手に商品を抱え込む。カゴに気づくとそれを掴んでその中に商品を放り込む。ニイノが築いて保ってきた秩序が、汚されてゆく。男たちは店内に散らばった。汚染はすぐに店内全体に広がる。男たちはニイノがいないかのように、まるで自分たちのゴミ捨て場にでもいるかのように振る舞っている。
 無法者たちは小銃を下げていた。ニイノは手出しができない。略奪を済ませた男たちはそのまま出て行こうとした。ふと、男たちの一人がレジにいるニイノと少女の方に視線を向けた。ニイノの脇に冷たい汗が流れる。男が近づいてくる。まず目を引くのが、唇から突出した前歯。その上には塵芥除けだろうか、丸眼鏡のような暗い色付きのゴーグルをつけている。その奥は窺い知れない。頭にはヘルメット。ずかずか近づいてくる男はニイノには目もくれず、少女の方に向かってきた。
「なんだ、つくりもんか」
男は少女の軍衣を無造作に捻り上げてはだけ、一瞥した。
「穴もねえし、胸もねえ。なんだよ、つかえねえな」
「ちょっと、なんてこというのよ!」
ニイノは叫んだ。頭に血が昇って思わず。
 男はそのとき初めてニイノの方に顔を向けた。まるで今気がついたというふうに、口を半開きにして。そして、レジの上のトマトジュースとクロワッサンに視線を向けた。
「糞を作るだけじゃねえか、こんなもん」
そう言って少女の軍衣を掴んでいるのとは反対の腕を使って、商品をレジから払い落とした。同時に、掴んでいる軍衣をさらに捻り上げたかと思うと、そのまま向こうへ力任せに押し放した。鋼管製の義足がもつれ、少女の体が金属的な音を立てて倒れた。あわててニイノがレジから飛び出し、少女を助け起こしにかかった。男は少女に覆いかぶさったニイノを足蹴にしようとする。
 男が入口の人の気配に気づいて足を止めるのと、鋭い制止の警告が聞こえたのは同時だった。
「止まれ!」
不服そうな男の唇が向いた先には、警官隊がいた。その周りには男の仲間の一団。手こそ出さないものの、剣呑な目つきで警官たちを睨め付けている。男が警官たちに凄んだ。
「何か用かぁ、ええ、お巡りさん」
「店から出ろ」
「なんだよォ、まだ買い物中だぜぇ」
「いいから出ろ!」
「俺たちゃ戦闘から帰ってきたばっかなんだぜぇ、少しは気ぃつかってくれたっていいじゃねえか。ええ?誰のために戦ってると思ってるんだぁ?ああ?」
「い、一般市民を相手に乱暴を働いていいと思ってるのか!」
「あのなあ、話、きいてんのか」
「ぐ、軍警察に通報するぞ!」
男は、さもつまらないと言うふうに、大きくため息をついた。
「わかったよ、出りゃあいいんだろう」
そう言って入り口に向かおうとする。が、思い出したように後ろを振り向き、ニイノに向かって捨て台詞を吐いた。
「オカマ野郎にふさわしいチンケな店だな、えェ?なあーんにもねえ。」
「作り物の女に相手にされないんだから、本物の女には、なおさら見向きもされないわよねえ」
ひたすら少女から暴風と屈辱が過ぎ去ることを念じていたニイノの体の下から、ニイノをぎょっとさせる台詞がこぼれ出た。男の体が再びこちらを向く気配を感じる。音だけが警官と男が揉み合うさまを伝えてくる。
「やめろ!」
「うるせえ!離せ!あのクッソ餓鬼!バラしてやる!」
「憲兵に知らせるぞ!重営倉に行きたいのか!」
なおも揉み合う衣服の音が聞こえたが、それが次第に遠ざかる。盛大な扉の音を最後に、店内は再び静寂を取り戻した。
 
 男達が戻ってこないことを感じ取ると、ニイノは詰めていた息を吐き出した。視線を下に向けると、仰向けに天井を睨む、無表情な少女の顔がある。
「大丈夫?」
「機能的には問題ない」
「よかった、今起こすから」
そう言ってニイノは体を起こすと、膝を突いて少女の背中を抱え起こした。少女も手を突いて起き上がる。ニイノはさらに少女の脇に肩を入れ、少女を立ち上がらせた。
「災難だったわね。ごめん、止められなくて、わたし、いくじがなくて」
「あなたは意気地なしじゃない。」
「え?」
「戦って、私を守ってくれた」
少女の目が初めてニイノの目に向けられた。美しい、と思った。凄絶、という言葉がニイノにはなかったが、単に美しいだけでない、何かぎざぎざとした激しいものは感じ取った。だが、それに見とれてしまう前に、ニイノはあわててレジに駆け込んだ。ぼやける瞳を見られたくなかったからだ。しゃがんで男が払い落としたトマトジュースとクロワッサンを拾いながら目をぬぐう。立ち上がりながら紙袋に入れ直して少女に向き直った。
「はい、あなたのよ。」
「ありがとう。あの人たちは、どうして来たの、あの警官たち」
「通報したのよ、雲行きが怪しくなった時点でね。ねえ、あたしニイノ。あんたは?」
「……なんで聞くの」
「だって危ないじゃない、また襲われたら。なんかあったとき連絡とれたほうがいいんじゃない?」
「……アンジェラ」
「アンジェラ。いい名前ね!我らが守護天使の娘さんみたい。私のアドレスこれ。」
そう言ってニイノはアンジェラの目を見つめた。アンジェラの網膜にニイノのアドレスが映り、保存される。アンジェラがニイノを見つめ返すと、ニイノの網膜にはアンジェラのアドレスが映り、保存された。
 

 
 次の日。アンジェラはニイノの店でトマトジュースとクロワッサンを買って店を出た。ドアを出て左に曲がろうとする。店の角の陰から、昨日の丸眼鏡ゴーグルに出っ歯の男がうっそりと現れた。男が何か言う前に、アンジェラの義足の車輪は唸りを上げて路面を噛んだ。男の脇を摺り抜けて離脱した。風を巻き上げて遠ざかろうとするアンジェラの軍衣の背中に男が吠えた。
「この店壊っぞ!おお?!まてやゴルア!」
男の数メートル先でアンジェラの義足の車輪が停止した。
 
 店の中では、ニイノがドアを出るアンジェラの背中を見送っていた。昨日と全く同じものを買ってゆくアンジェラに、なんだか可笑しみとも、微笑ましさとも区別のつかないものを感じる。その背中がガラスドアの左に消えた後も暫く見つめていた。レジの奥に戻ろうとした瞬間、そのドアの向こうで、黒っぽい人影が続けざまに数人、素早く左手へ横切ってゆくさまが目に飛び込む。頭髪が逆立つような感覚を受けたニイノは、転びそうになりながらレジを出た。ドアに駆け寄って、その勢いで体当たりするようにドアを開ける。目の前に広がっていたのは、アンジェラの遠い背中と、昨日の男たちがそれを包囲してゆく光景だった。
「アンジェラ!」
思わず名前を呼んでしまった。駆け出したいが、足が竦んで動けない。ドアを掴んで固まっているニイノに、男達は下卑た薄ら笑いを向ける。その侮蔑が原因となって、ようやっと燃えにくい燃料に着火したのか、ニイノは床にくっついて動かない足と、ドアを掴んで離さない手とに抗って、それらを無理矢理引き剥がすように、膝を上げかけた。不意にアンジェラが振り返った。ニイノの目にアンジェラの瞳が飛び込んできて、それのみが大写しになったような錯覚に陥る。同時に、ニイノの網膜にアンジェラからの言葉の文字が羅列され始めた。
(私は大丈夫、心配ない。ニイノ、そこにいて。回線だけ開けといて)
かろうじて了解した旨の返信をしたニイノの目の前で、アンジェラは男たちの小銃に背中を小突かれて視線を前方に戻した。守護天使の娘が、無法者どもに囲まれて、店から遠ざかってゆく。
 
 悪意に蝟集されて移動させられたアンジェラが着いた所は、街の中心から離れた集合住宅街だった。見渡す限り大きな建物が何棟も目に入ってくるにもかかわらず、人影は全く見当たらない。ただし、その建物群は健常なものではなかった。
 そこはやはり一時、シアスール軍の攻撃に曝された区域で、建物の多くが損傷したり、破壊されたりした。それ以来、住民は別の場所に避難したままで、帰ることができないでいる。現時点ではカリーネウ軍が掌握しているものの、いつまた状況が変わるかもしれず、よほどの用事がない限り、近づく人はいないからだった。
(わからないな…)
気持ちの悪い男達越しに、傷ついて、虚ろな表情でこちらを見つめている集合住宅達を眺めながら、アンジェラは考える。
(なんでこんなところへ。わたしが生身の女なら意味があるだろうに)
まるで天空から自分自身を眺めてでもいるかのように、あるいは他人事であるかのように、状況を観察する。
(ああ、そうか。いたぶって殺すにしても、流石に街中ではまずいのかも。半分は意味があるのかな。)
 アンジェラがひとりごちているところへ、瓦礫の影から男が現れた。その男の顔を見て、アンジェラは不可解な感覚に襲われた。それは確か、昨日ニイノの背中越しにかいま見た、警官の顔ではなかったか。
「いよう兄弟!」
丸ゴーグルに出っ歯の男が警官に声を掛けた。
「かっはは!ネズニコフ!兄弟たぁ良いな!で、兄弟、それか?買ってくれっていうのは。」
「そうよ、体はガラクタだが、頭はそれなりにいいモンじゃねえかと思うんだがよぅ、どうだいウソツキー。」
「そうさなあ、まあ物好きは結構いるからなぁ。」
出っ歯のネズニコフと警官のウソツキーはアンジェラを一瞥し、また話し始めた。
「んー、ブールルでよけりゃ50万出すよ」
「おほっ?マジか?!それくらいもらえりゃ文句ねえ!いーのかよぅホントに?!」
「まぁーあんた達と俺との仲だ。こんなものまで買わされるとは思ってなかったがな。それより軍のネタも引き続きよろしく頼むよ。」
「そんなこたぁお安い御用だ。まかしときな。」
「……あんた、作戦内容を流してたね…?」
今まで黙っていたアンジェラが、ネズニコフに言葉の刃を向けた。
「ああ?なんだ?クソガキ」
「カルミウスの製鉄所で戦車部隊が待ち伏せを受けたのも、あんたの仕業ね?」
「うるせーなー、だからなんだってンだ、あぁ?オメーはもう終わりだ。んなこたぁどーだっていいだろうが」
「危うく全滅するところだったわ。なんで」
「知ったことか。俺にゃかんけーねーわ、黙れこのガキ」
「どうして侵略者の片棒を担ぐような真似を」
「っとにうぜえガキだなぁ。いいか、おめぇは売られてアタマぁ引っこ抜かれて死ぬんだ。脳ミソ掻き出されてよぉ!そんでもってグッチャグチャに潰されて便所にでも流されんだろ。クソと一緒にな!ギャハハ!いーぃキミだぜぇ!おもしれー!」
「…ったく、答えになってないわ…。なんで国を、カリーネウを裏切るのよ」
無関心そうな中にうっすら不満をくゆらせて言うアンジェラの態度に、ネズニコフはすこし驚いた。
「いい度胸してんなぁ、そんなに知りてぇか。そんじゃあ冥途の土産に教えてやらぁ。カネだカネ!カネに決まってんだろ!カネさえもらえりゃ、オレにとっちゃカリーネウだろうがシアスールだろうがどっちでもいーんだよ。そのあとどっちがどーなろうと知ったこっちゃねえ」
「なるほどねえ、金の亡者ってわけだ。話には聞いたことあったけど、本物は初めて見た」
 
 カルミウス近郊、カリーネウ軍戦車部隊の駐屯地。大天使ミカエルの図像をあしらった78式戦車が動き始めた。底車高形態から直立形態に移行し始める。携行戦車砲を構えた両腕が上がりだす。砲口が大仰角を取って天を向いた。
 
「テメエが売りモンじゃなかったら、ぶん殴ってそのドタマ潰してやるとろこだ」
「まあ無理ね。か弱いあんたのお手々のほうが折れて潰れるわ、このハゲネズミ」
アンジェラの言葉は、ネズニコフの理性を失わせるのに充分だった。鋭利に研ぎ上がった剛強な刃が細い糸を一撫でするよりも確実に、辛うじて獣性の暴走を繋ぎとめていたものを断ち切る。
 凶暴さだけが伝わってくる、意味を成さない奇声を発して、ネズニコフが右腕を振り上げるまでの様子をアンジェラの網膜は捉えていた。次の瞬間、ネズニコフの姿はアンジェラの視界から下方に消える。
 ところで、戦車砲弾のうち、徹甲弾が人間の頭部に着弾すると、どのような現象が発生するのか。
 戦車砲の徹甲弾は一般的に細長い矢のような弾芯を有しており、その尾部に飛翔時の安定性を確保するための羽根を具えている。しかしそのままでは砲の内径より細すぎるので、それに合わせた直径の鞘に収まっている。薬莢に込められている炸薬の力で鞘と弾芯の複合体が、砲身内面の性状が滑沢な滑腔砲の中を前進する。その複合体が砲口に達し、砲身外へ射出された瞬間に鞘が外れて飛散し、弾芯のみが飛翔してゆく。弾芯は秒速1600メートル(マッハ5)で飛翔し、2000メートル先に設置された厚さ500ミリメートルの鋼板を貫通する能力があるという。つまり、2キロ先に据え付けた5センチの分厚い鋼鉄の板に穴を開けることができるのだ。例えば、東京駅から(その間に立っているビル群にはどいてもらうとして)新橋駅前、または秋葉原駅前に停まっているベンツを狙って、そのフロントグリルからエンジンブロックを貫いてトランクルームを射抜くくらい、造作もない。
 一方、ネズニコフの被っているヘルメットはせいぜいケブラー製で、破片を防ぐ能力はあるが、小銃弾でも、威力の強いものはこれを貫通するという。戦車砲の徹甲弾であれば、なんの問題もなく、針がちり紙を突くように、やすやすと通過するだろう。
 まず、徹甲弾の弾芯の尖頭がネズニコフのヘルメットの頂点に接する。尖頭はヘルメットに穴を開けながら内部に侵入する。さらにネズニコフの頭頂部の皮膚に達し、出血が始まる。弾芯はそのまま直進し、頭頂骨に刺さり貫通する。脳硬膜に穴があき、ヘルメットと皮膚と頭頂骨が混ざった破片を撒き散らしながら、弾芯は頭蓋内部に侵入する。吹き込んだヘルメットと皮膚と骨の破片が拡散する経路上には、水っぽい豆腐のような、あるいはヨーグルトのような性状を有している大脳組織が充満しており、擦り潰されて撹拌されるのを待っている。ところで、弾芯は大気中を超高速で飛翔したことによる摩擦熱を発生させている。その熱によって弾芯と接した大脳組織は沸騰蒸発、あるいは焼結する。さらにその周りの大脳組織は、頭蓋骨内壁へと押しやられ、圧迫されながら破壊されてゆく。弾芯が通過することでさらに頭蓋内圧が高まり、秩序を失った大脳組織は逃げ場を求めて、頭蓋内壁で強度が一番弱い所に追い詰められる。それは蝶形骨大翼の脳頭蓋側で、その外面は眼球の収まっている眼窩の後壁を形成している。また、大翼と小翼のなす上眼窩裂は頭蓋内から眼窩内へと交通している。内圧に耐えられなくなった大脳組織は、初めは上眼窩裂から徐々に、やがてそれを押し広げるように大翼を吹き飛ばしながら眼窩に押し入る。それはやがて、やはりその圧に耐えきれなくなって根元がちぎれた視神経と靭帯から引き剥がされた各種動眼筋とが結合したままの眼球や、その周りを埋めて詰まっていた眼窩脂肪や、当然大量の血液やらと共に、眼窩から外部へ噴出する。引き続き弾芯は頭蓋底を突き破り、鼻腔後壁を経て咽頭を破壊しながら進み、食道と気道を粉砕したのち心臓に達し、これを破裂させる。その後肝臓を破砕し、胃、十二指腸、結腸、小腸など内臓を引っ掛け断裂しながら腹腔内に侵入し通過する。腹腔も内圧が高まり、やはり強度の弱い臍の辺りが中心となって腹部前方が破裂し、やはり赤、白、ピンク、黄色、青みを帯びた玉虫色、濃い茶色といった、鮮やかな色とりどりの液体や内容物が暴出、飛散する。弾芯はさらに膀胱と陰茎と陰嚢を引きちぎりながら、肛門を破壊して腹腔から抜け、地中深くに突き刺さる。
 このような経過が想像されるが、実際はこんなに優雅で奥ゆかしいものではなく、無造作に一瞬でネズニコフを暴裂、破壊し、潰して吹き飛ばし、跡形もなく消し去るものなのかもしれない。
 だが、このときネズニコフに対して実際に使用されたのは、誘導砲弾の演習弾だった。
 演習用誘導砲弾には、ある一定の距離を飛翔した後は、速度を低下させて威力をなくし、安全化させる機構が備わっているという。まず、少量の爆薬を内蔵し、自爆するようにしてある。また、弾底部からパラシュートを開くことで、空気抵抗を増大させて減速し、落下するようになっている。
 ネズニコフに使用されたのは、しかし爆薬が抜き取られているものであった。
 携行戦車砲で打ち出されて飛翔したのち、落下を開始した演習用誘導砲弾は減速を開始しながらも、軍事衛星や偵察用ドローン、そして現場のレーザー誘導システム(アンジェラの眼)などに導かれ、ひたすら目標を目指した。そしてついにその尖頭はネズニコフのヘルメットの頂点に接して穴を開けた。ついで頭皮に食い込みながらも頭頂骨を破壊する前で止まった。この一連の過程を経ながら、その運動エネルギーをもってネズニコフを一瞬で地面にねじ伏せたのだった。
 
 大天使ミカエルの戦車群が、一斉に天に向かって射撃を始めた。
 
 アンジェラの周り、浮き足立って逃げ出そうとする悪党どもに、守護天使の矢が次々と降り注いだ。ウソツキーが慌てて走り出そうと身を翻す。その足を演習用誘導砲弾の尖頭が貫き、釘付けにした。激痛に転がりながらアンジェラを視界にとらえたウソツキーは、咄嗟に拳銃を抜こうとした。しかしウソツキーの視界は回転翼の音と共に遮られる。額に冷たく固いものが当てられる。次の瞬間には拳銃に手をかけた方の右肩に激痛が走る。叫び声を上げたウソツキーの肩には二本目の矢が突き刺さっていた。回転翼の音が少し遠ざかり、視界が開ける。自身から離れて、こちらに狙いをつけたまま空中に静止している戦闘用ドローンの全体像が視野におさまる。額に当てられていたのは、その機体に装備された機銃の銃身であったことを、ウソツキーは理解した。その向こうにアンジェラが佇んでいる。ウソツキーは痛みに耐えながら声を絞り出した。
「なぜ殺さない」
アンジェラは、無表情な顔の造作の中のうち、かわいらしい眉根をかすかに寄せて、すこしうんざりした様子で返答した。
「殺してもいいけど、寝覚めが悪くなるからねぇ…。私はね、意味わかんない理由でひとの国に勝手に入ってきて、平気で人殺しをするサイコパスでテロリストな侵略者とは、違うのよ。それに、“死体は情報を吐かない”って、いうじゃない?」
「ふざけやがって!後悔するぞ!情けをかけたつもりだろうが関係ねえ!いずれお前を殺してやる!覚えてやがれ!」
「いずれって…次があるつもりなの?」
「お前は甘いんだよ!どこへ逃げたって探し出して八つ裂きにしてやる!」
「えっ?ほんと?いやぁ、わざわざお手数をお掛けして悪いわねえ。その時は正当防衛で堂々と殺せるからありがたいわ。でもどうやって?なんで探し出せるのよ」
「このっ…クソガキっ!CBP(Служба внешней разведки, 英訳Foreign Intelligence Service, シアスールの諜報機関)はお前なんかすぐ探し出す!」
「あ、そう。でもあんた、そこに知り合いがいたって、そんなこと頼んだところで、二つ返事でハイハイとやってくれるわけないじゃない。」
「自分で動くさ!俺は“中の人”なんだからな!バカが!」
「あー、そうなの…。でも、裏切り者やスパイにはきついんじゃない?軍警察は。死ぬより辛いって聞いてるわよ。よく知らないけど」
「はっ!俺を突き出すつもりか?無駄だよ!俺がスパイだっていう証拠がない!お前がいくら騒いだってな!」
「証拠かあ。今までのやりとり、ライブ配信してるんだけど。もちろん、録画もしてるよ。」
「あ?!な、に?!」
 
 アンジェラからの映像を店のモニターに映して見入るニイノ。
 仮設住宅で携帯端末に受信した映像を見つめる人々。
 軍の司令部で映像を見る軍人達。
 
 大天使の矢の雨が降り止んだ。
 遠くから、複数の車両の、サイレンを鳴らしながら急速に近付いてくる音が聞こえてくる。ウソツキーの胸鎖乳突筋から力が抜けた。首筋に鈍い痛みを内包しただるさを感じながら、僧帽筋が前方へ屈曲していた状態が徐々に解消する。後頭部に硬い灰色の砂礫を感じる。アンジェラが視界の下に消え、その後変わって映るのは、薄曇りのさえない空のはずだった。しかしそれをウソツキーは認識しようとせず、視界を閉ざした。だが、聴覚を遮断することはできなかった。横たわる身体の両側から聞こえてくる複数の靴音が、後頭部に感じているのと同じ砂礫を踏み締め迫っていることを伝えてくる。
 その様子を、上空から複数の戦闘用ドローンが監視していた。
 

 
 アンジェラが男達に連れ去られて以来、ニイノはアンジェラに直接会っていない。しかし、アンジェラとの回線は繋がったままだ。それが時折途切れたり、気がつくといつの間にか、また繋がっていたりする。ニイノはアンジェラの仕事の内容を具体的に聞いた訳ではない。だが、仕事中は民間の回線を切らなければならないのだろう、と想像している。短いやりとりもたまにあるが、やがてニイノは、回線が繋がっていること自体が、アンジェラとの対話なのだと、思うようになった。
 
そんな状況で、珍しく長い会話になったときの終盤部分。
 
「鋼鉄天使」
「え」
「この前のことでふと思ったのよ。あんたってすっごく強いから、まるで鋼鉄の天使のようだわーって、ね。…気に障った?」
「いや、別に。だけど、なんで」
「大天使ミカエルの娘でしょ!」
「わたしはそんなんじゃない……もう切るよ。」
「そう。また買いにきなさいよ。クロワッサンとトマトジュース。いいの仕入れとくから。」
「うん。」
「またね、アンジェラ。カリーネウに栄光あれ!」
「じゃあね、ニイノ。カリーネウに栄光あれ!」

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